形式と〈言わんとする作用〉

デリダ「哲学の余白」。形式と〈言わんとする作用〉の抜粋からはじめよう。そのあと考察する。

「かくして前ー表現的ノエマ、前ー言語的な意味は表現的ノエマのなかに印刷され、その概念的標記を〈言わんとする作用〉の内容のなかに見いだすのでなければならない。構成済みの意味を外部へ運ぶことに自己を限定するためには、そして同時にその意味を変質させることなく概念の一般性に到達させるためには、すでに思考済みのもの-書かれたもの、とほとんど言うべきかもしれない-を表現するためには、それを忠実に二重化するためには、表現は意味を表現すると同時に意味を印刷されるがままになるのでなければならない。〈意味〉は〈言わんとする作用〉のなかに記載されるべきものなのだ」

デリダ「哲学の余白」法政大学出版局


意味を理解するとき、言葉を駆使する。言葉という形式から、本質的な意味が汲み取れるのだろうか。言葉とは、(ほんとうに)一般的なものだろうか。表現するために已むなく言葉に頼るのだが、言葉くらいしか表現媒体がないし、もっとも普通であるから。問題は、意味を乗せている形式としての言語作用と、その言語作用が示す意味との差異である。意味は、言語作用によって再生されなくてはならないが、再生されたものが、果たして再生する者が汲みとることのできたものと全く同一なものかどうか。言葉の曖昧性は事実だから、表現者と、それを再生する者が得られた意味は、同じとは言えないだろう。これでは意味が一義に決まらないということになり(双方で)、忠実な意味の再生が不可能となる。また言語作用に意味が影響を受けるかも知れない。つまり言葉を使うことで、言葉そのものがもつ特徴(特権?)に影響され、これから自由になることができずにいる。言葉を使うとは、同時に言葉の規則の奴隷になることでもある。意味が、真に忠実に伝わるのは奇跡に近い。表現者の語る意味を忠実に再現することは不可能に近い。意味の交換がなされるときに、実際に交換されているのは、意味を発する者が表現したい忠実な意味などではなく、解釈された意味なのだ。また表現者は、その表現媒体である言葉から表現すべき内容を制限され規定されている。言葉によって表現しようとするときに既に、表現しようとする内容が、言葉という表現形式から反撃を受ける。言葉という道具をゼロにすることができないからである。ゼロになるとは、発信者と受信者との距離が無くなるという意味である。言葉がゼロならば、表現が即、表現になるが、言葉なしは不可能だ。
わかりやすい例えを示そう。モーツァルトの音楽は美しいと人はいう。だが、その音楽は演奏者が楽器を使って奏されたモーツァルトである。演奏者と楽器と二重の介在がある。純粋な音楽は、まさにモーツァルトの頭の中で鳴った楽想であるはず!それはだれも聴くことができない音楽なのだが。

渋谷昌孝(Masataka shibuya)

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