〈閉じられたテキスト〉を蘇生させる

存在があるためには、あるいは、存在するためには、あるいは、存在を存在として認めるためには、或る条件が前提となる。条件とは能動性である。存在があるためには、存在が開示されなければならないが、それを可能にするものが、能動性であるからである。能動性とは、対象に積極的に関わることである。ここで〈閉じられたテキスト〉という概念を取り上げてみる。〈閉じられたテキスト〉とは何か?まだ開封されずに放置されたままになっているもの。それはあたかも意味を凝固させ凍結させつつ冬眠しているかのよう。〈閉じられたテキスト〉とは、想定されるものであるが、無いもののことである。だが想定されているが故に、在るものでもある。なぜ〈閉じられたテキスト〉という概念を導入したのかというと、能動性に大いに関係するものだからである。つまり〈閉じられたテキスト〉とは、いまだ存在を開示していないが、将来的にその開示を期待されている。そして、その開示を可能とする条件が、能動性というわけである。あらゆる存在は、この能動性という謂わば、積極的な関与によってのみ開示され存在としての地位を獲得する。〈閉じられたテキスト〉は待ち続けているものであり、そのままでは永久に待機する存在となってしまい、これは無を意味する。待機しているものには積極的に関与しなければならず、どうしても能動性が不可欠になる。開封されない〈閉じられたテキスト〉は存在になることができない。人は「見る」という。しかし、厳密に言えば「見つける」のだ。眼に映じる光景を受動的に、ただ漠然と眺めているのは「見る」に過ぎず、決して「見つける」ことにはならない。問題があるとすれば、見る方向である。見える方向に視線を遣るのは、もっとも自然なありふれた行為であるが、これでは初めから対象を固定してしまっていることになる。対象を限定している以上なんら発見的要素もない。発掘するには、冒険的に見えない方向に視線を移動させなければならない。ここでは「見る」とか「視線」は比喩的な意味で使っている。もちろん、既に見えているものを深く調べるという方法も否定しない。
ニュートンは「発見されずにいる真理が海辺の砂のようにあるのを知る」といったと伝えられる。存在が発見されるためには、未知なる方向に向かって能動的に、こちら側から働きかけなくてはならない。待っている知られざるものが眠っていることを信じて!「どうして永久に待機しているような存在が想定できるのか?」と疑問に思われるかも知れない。それには素直にこう答えよう。「考えた結果による直感」であると。

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