子供の疑問についての疑問
まずは、メルロー=ポンティ「知覚の現象学」の言葉から。
「…たとえ子供は〈自然〉についての思惟として自分を意識するまえに、まず言語的共同体の成員として自分を認識するのだとしても、それが可能となるためには、主体[子供]は自分の普遍的思惟としては意識せず、むしろ自分の言葉として捉えることができるのでなければならないし、かくして語は、対象および意味の単なる標識であるどころか、事物のなかに住み込み、意味を運搬するものでなければならない。したがって言葉は、言葉を語る者にとって、すでにでき上がって思想を翻訳するものではなく、それを完成するものだ、まして言葉を聴く者にしてみれば、言葉そのものからこそ思想を受けとるのだということを、認めなければならない。」
「まず最初に認めなければならぬことは、思惟とは語る主体にとって一つの表象なぞではないということ、つまり、思惟ははっきりと対象または関係を措定するものではないということである。弁士は語る前に思惟するものではないし、それどころか、語っているあいだにも思惟しはしない。すなわち、彼の言葉が彼の思惟なのだ。同様に、聴者の方も[弁士の語る言葉の]標識に関してあれこれ思惟を抱くのではない。弁士の〈思想〉は彼が語っているあいだは空虚になっているのであり、だから聴いているわれわれの方も、われわれのまえで文章が朗読されているとき、その表現が成功しているかぎりではその文章自体とは別のところで思想を形成しているわけではない。むしろ、語がわれわれの精神の全幅を領しているのであり、語はわれわれの期待状態を正確に充たしに来て、われわれはそこに演説の必然性を経験する。
「知覚の現象学」より「表現としての身体と言葉」
どうしても引用するほうに傾いてしまう。展開がはやいので追いつかない。この場から出発しているという思考発祥の地点に悉く変更を強いるからである。語る者は思惟しておらず(という意味は、語られる言葉のほうに思惟を思惟たらしめるものが移されているので)、聴く方も思惟の働かない状態である。両者は言葉の領野に住み込むことによって(言葉の完成によって)初めて思惟を開始する(というよりも思惟が現れる)。思惟は語る者の側にあるのではなくて、言語空間の側にいったん置かれる(否!置かれるのではない。既にそこから存在している)。このとき思惟は空虚であり、思惟となっていない。ここで唐突ではあるが、子供の認識について興味があるので考えたい。(メルロー=ポンティの話とはあまり関係ない)。なぜ子供なのかというと、大人とは認識の仕方に大きな相違があると思うからである。すでに思考の枠組みの定まった大人に対して、子供は思考の枠組みを変えながら、同時進行で世界を捉えている。意味を習得したとしても生成過程にある精神にとっては、そのつど意味が変わりはしないだろうか。大人の場合には、頭の中にある地図が堅固なものとしてあり、外から与えられた意味は、この地図のどこかに仕舞い込まれる。これに対し、子供の地図はつねに創造破壊的であるはずだから、言葉もその意味もつねに変わってしまうのではないか。認識の仕方が、いつも新しく更新されているのは理想的な状態であると、大人からみると思える。メルロー=ポンティは、言語空間の側から意味が探しだされ、思惟すらその中において完成されるという。思惟から発信するように普通は思われるが、言語空間の方から思惟が定まる。子供の言葉も同様であろうが、言語空間もまだ未成熟で生成過程にあるはずだ。子供が世界を把握しようとするとき、どちらも流動的で定まるものはない。知ろうとする瞬間に知ろうする主体である子供の認識手段は変わっているのであるから、知った瞬間には知られたものが知った主体にとって異なるものになってしまう。これはほんとうに知ったことになるのだろうか。知ったものが、そのままのかたちで知ったものとはならずに異なるとすれば、二重に知られたものがあることになってしまい矛盾する。知られた意味が生成過程の精神のなかで変化するとすれば、定まった意味などない、ということになりはしないだろうか?
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