ウクライナ系「J」

ウクライナ系ユダヤ人の一覧を閲覧して驚いた。一般に知られているだけを挙げてみても錚々たるメンバーである。スティーブン・スピルバーグ。レナード・バーンスタイン。セルゲイ・プロコフィエフ。ウラディーミル・ホロヴィッツ。エミール・ギレリス。アイザック・スターン。レフ・トロッキー。ジョージ・ガモフなど尽きることがない。今回(2022.3)のロシア軍のウクライナ侵攻で考えたことのひとつは、ロシアとEU諸国とに境目にある国から人類史上稀にみる偉人が多いことである。そして、そのほとんどがユダヤ系で占められているという事実である。地政学的に戦争の絶えない地域だと言える。日本のような安心とは無縁だ。私たち日本人は、安心でいることに余りにも慣れてしまっている。なんら代償を払わずして安心を手に入れてしまっている。これは他の国からみれば異常に映るに違いない。ユダヤ系のあざやかで(眼の醒めるような!)驚嘆すべき溢れんばかりの才能と「安心でいることができない」という立場との関連性についてよく思う。ユダヤ性と日本性という図式で仮に考えるならば、非安心(安心不可能)と安心ということになりそうだ。どうしてもユダヤ人の類い稀な卓越性ばかりに眼が行きがちなのだが、その核心部分には不安があるのではないか。この不安こそが安心状況には決してみられないような才能の卓越性を、否応なしに血の力で絞りださせるのではないか。安心が礎になっていない、とはどのようなことなのか?そして宙吊りにならざるを得ない運命とはどのようなものなのか?不安とは、常に宙吊りにされている状況下にあることだ。この日本には無い、生命にかかわる巨大な不安が非常事態を生き延びるために「どうしても必要な」という緊急逼迫性のほうへ彼らを駆立てる。安心には、そうしたものが一切ない。ユダヤ人の卓越性とは、そうならざるを得ないからそうなるのであって「こうしよう」としてなったものではない。彼らの非凡な才能の多くは、おそらく「こうしよう」というような意図的な、あるいは意識的な努力に依るものではない。「こうしよう」という呑気を言う前に喫緊の要請として「せざるを得ない」のだ。想像力を働かせれば、宙吊りなままの宿命とは、緊急性と危機感に駆られる無意識的な(決して意識的ではない)心の準備を内からも外からも緊急要請されているということになるだろう。また不安とは絶えず欠如を自覚することでもある。欠如の自覚は巨大なエネルギーを使って、これをただちに埋めあわせようとするだろう。(満足するとは安心することだ。絶対的な欠如とは絶対的に満足しないことであり、更にある部分が欠如するのではなく全部が遍く欠如の色に染められることだ。と同時に欠如感が焦燥感を伴ってその埋めあわせに即、緊急性をもって自分を駆立てるものでなくてはならない。さもないと平凡な穴だけが残る。穴を穴とみるか。それとも埋めるべき存在としてみるかの違いは大きい)。人類がほかの動物と異なる発展のしかたは知恵を活用したことにあるが、ここに人類の原点があるように思える。人類の先祖は弱かった。いつ何時、天敵に襲われるかわからないような過酷な環境におかれていた。このときから不安と共にあったのだ。(不安を精神分析的に性的な抑圧とはじめて考えたフロイト自身がユダヤ人である)。不安には消極的な印象のほうが強いが、これほど鞭打たれるような感情はない。ただし、ここ日本においては真の不安にはなりにくい。芥川龍之介のいわゆる「漠然とした不安」となってしまう。(が、ユダヤ人カフカの不安は、あの天才的な作品達に最大限投資されている)。ユダヤ的な不安とは、このような安易なものではない(命に重大な危険性がある種類のものだ)。つまり安心の土台の上に不安があるのではない。そうではなくて、不安のうえに尚も不安があるような様式で不安があるのだ。根本的に不安のあり方が異なっている。ほんとうの不安とはユダヤ人のもつ不安のことであって、日本人のものではないと言える。私たち日本人は、宿命的に真の不安を持つことができない!これはいいことなのか?それとも悪いことなのか?それともどちらでもないのか?それともまったくどうでもいい話であるのか?おそらく後者。なぜならどうでもいい話(安心と才能についての個人的な趣味的な)をしたつもりであるから。
目下おこなわれている戦争については何も言う権利がない。ウクライナ人の地獄の一日は、私たちの苦痛の一万日一億日以上に匹敵するであろうから、その過剰なまでの凝縮体験には永久に追いつけない。戦争体験は想像することが不可能な部類に属する。体験した者にしか絶対わからない特殊な体験である。体験しない者には(どんなことがあっても!!)語ることが不可能。よって沈黙しかない。

渋谷昌孝(Masataka shibuya)

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