「問うこと」2
「すべて、問うということは、求めることである。そしてすべて、求めるということは、求められているものの側からあらかじめうけとった指向性をそなえている。問うということは、存在するものを、それが現にあるという事実とそれがしかじかにあるという状態について認識しようと求めることである。認識的に求めることは、問いに向かっているところのものを開発的に規定する作業という意味での『考究』となることがある。要するに、問うということは『〜へ向けられた問い』であるから、それによって問われているものがそれにぞくしている。ーすべて『〜へ向かって問う』ことは、なんらかの形で、『〜に問いかける』ことである。したがって、問うということには、問われているもののほかに、問いかけられているものがぞくしている。ー考究的な、すなわち特に理論的な問いにおいては、問われているものが規定されて概念として表明されなくてはならない。この場合には、問われているもののなかに、根本において指向されたものとして、問いただされている事柄がひそんでいるわけであって、問いはそこにいたって目標に達するのである。ー問うことは、ある存在者、すなわち問う人のはたらきであるから、それ自身、固有の存在性格を帯びている。問うことは、『ただ何気なくきく』という形でおこなわれることもあれば、また明確な問題設定としておこなわれることもある。後者の特色は、問うことがここで述べた問いそのものの構成的諸性格のすべてにわたって、あらかじめ透明な見通しを得ているという点にある。」
以上。ハイデガー「存在と時間」の序論から。
問うとはどういうことであるか。もちろん、人が問うのである。人は「〜に対して問う」というあり方なしに問うことができるのだろうか。問うからには、問うという行為のなかに問われているものが想定されているのではないか。幼児はなんでもかんでも質問するが、これはただ言葉遊びをしているだけであって、真剣に問うている訳ではない。問う主体は人である私である。私が問うとき、問われているものは、私が問うような方向からかけ離れているものであってはいけない。私は「〜に向かって」問うのであるから、もし漠然と問うならば問うというよりは瞑想に近くなってしまう。思索を巡らせるというのも明確に問うている訳ではなく、問われているものも曖昧な状態である。問うという行為のなかに問われているものが内包されているとするならば、これは問いにはならないのではないだろうか。問われているものが問うことに規定されてしまっているのなら、定まった事柄が定まったふうに開示されるに過ぎないのであるから、新しい問いにはなり得ないのではないだろうか。明確に問うことでは新しい知見を得ることができないということになりはしないだろうか。「〜について」問うという構造が問い自体に内包されている限り、たんに問う行為だけが独立してあることはできない。問われているものが問うことによって、すでに気に掛けられているのなら、問うしかたの領域内でしか答えは現れないことになる。求めるとは、求められているものを知っているからこそ求められる。知らないものを求めることはできない。したがって、問うとは、あたかも問われるもののほうから手が伸びてきて問うものを引っ張るようなものである。
0コメント