先天的な問題
問題を与えられるに及ばない。なぜって、自分自身が難問であるから。いつだってそうだった。学ぶためにわざわざ問題を必要としない。自分という難問と格闘せざるを得ない。その次の段階に普通の問題が与えられる。壁が二つある。自分自身の必然的な困難の克服を通過しなければ、新しい問題に辿りつかない。一般的対象は自分自身の困難さのために常に曇らされる。確実な事実も不確実な精神から理解しようとするから漠然としたものに映る。複雑な思考過程から船出しなければならないのは億劫である。問題はこの出発地点そのものだと判断する。ゆえに徹底的に分析すること。他者よりも「いまここ」を分析してやっと他者の理解に追いつくことができる。先天的に付属品たる重荷を背負っている。私にとっては複雑怪奇がまず先にある。すんなりと客観に至ることは容易でない。回り道あるいは道草を回避することは不可能であるように思える。主観内部に解決を施してからはじめて外部環境に至る。本当に厄介な精神構造だ。「自己を明らかにせよ!」と心は叫ぶ。
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