考えるヒントあるいはちょっとした雑感

「問い」とはつねに収束しているもののことである。発散した「問い」に解決を与えるのは不可能である。どういうことか。「問い」にはあらかじめ限定が施されていなければならない。限定されているからこそ、ここに焦点を合わせることができる。発散した「問い」には手のつけようがないのだから。焦点を合わせる主人は思考である。だから解決を目的とした思考は、切り取った部分だけについての思考でありその結果も限定されたものであるはず。しかしこの方法では新しい発見は望めない。発散している「問い」こそほんとうの思考が起動する源であると考える。捉えどころのないまだはっきりとした問題になっていない卵のイメージを漠然と心に沈潜させる。切り取られていない生身の問題はあやふやであるが、少なくとも全体と無限の中にあり思考を駆動させるのに十分な内容をもっている。ここでは思考と思考されるものすら判然としない。全体と全体が頭の中で交流している感じに近い。相手と私の区別は曖昧で未分化状態を呈する。これはまさに赤ん坊の頭と同じであまりに多義的でなんの分化もされていない。いわゆる退行ともいえるかもしれない。真の思考は的をもたない。思考そのものの過程で生命体のように思考内容が育まれ、突然に問題と答えが一緒になって飛びだすのだ。

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