抑圧あるいは喪的
空気が喪に服している。娯楽の禁忌。太陽が照っている下でも笑い声は聴こえない。おまけに川には生命の源たる水が死滅している。きょう散歩をしていたら(大地に接吻するラスコーリニコフ?)、赤い(血的な)救急車を4回(死回)みた。今度は9回(苦回)か。沈黙の冬が過ぎてのち到来するのも、また沈黙の春(カーソン)になるだろう。人間は主人公の座を奪われているかのようだ。フロイトの「メタサイコロジー論」から「抑圧」と「無意識」を集中的に読んでみる。なぜなら、自粛とは抑圧にほかならない。欲動があるのに、その頭(かしら)を押さえられている。発散できない欲動は抑圧されるが、それは消えたりせず無意識の世界に配置される。危険なことだ。意識から逃げることになるが、抑圧された欲動が無意識に移行され形成物ができる。これが症状となって現れてくる。神経質すぎる除菌消毒手洗いは強迫神経症の前駆症状になり得る。個人的には十分に発散しているつもりだが。思考とか空想には限度がなく、発散するにはもってこいなので、外的にではなく内的に欲動を消費(昇華?)させている。消費されなければ、抑圧に向かう危険性があるため、欲動に道を開けておくことは忘れない。だが抑圧を免れたとしても、思考や空想そのものも無意識の形成物であると言えなくもない。抑圧を免れたと勘違いして、思考という作業が無意識の中に形成物を構築しているのかもしれない。フロイトによれば、知覚を通し意識的な上から下に向かう心的活動と、無意識的で下から上(意識)に向かう心的活動の拮抗している状態が心の構造であるという。思考作業は、この拮抗し混沌とした心的葛藤への積極的な参加と言えるだろう。ところで、症状には有益なものとそうでないものがある。思考が症状だとしても、何かの役に立つならば、価値ある症状ということになり、敢えて病的な意味合いの強い症状という言葉を使わなくてもいい。ジョイスは作品を書くことで、かろうじて均衡を保った。この場合、作品は思考という症状の代理の役目となっている。作品が症状と等価であるから、作品を書かなかったならば、ジョイスは病に冒されたであろう。ジョイスの例は極端であるが、自粛による欲動(欲望)の抑圧を回避するため、なんらかの能動的作業を試みることで、有益な方面に代理形成させるようにする。(2021・2.1)
0コメント