名前を与えられた「死」
名が与えられたものは死んでいる。どうゆうことか。記述されてしまったものは、まだ記述されていないものに比べれば墓場に近い。我々は記述されてしまっている死体を眺めているのだ。死体となったエクリチュールから学ぼうと躍起になっているが、まだ書かれていないパロール的なものに多くの意味が内包されているだろう。名が与えられるたびに、その名になった以前パロールであったものが死ぬ。考えだされる瞬間は生きていた。無限に広がる豊穣な海の魚のように新鮮に泳いでいた。この豊穣の海はこの世にはない。名が与えられていないから存在しない。存在するものには名が与えられる。だが名が与えられ、エクリチュールとなったものは、もうとっくに新鮮さを失い、生を絶たれてしまった死骸なのだ。我々は生きているパロールのほうを気遣ってやるべきなのに、できない。考えだされ書かれたものばかりに熱中している。死んだエクリチュールを尊重している。このような既に死亡しているエクリチュールから、死んだエクリチュールへと蟹のように歩む。もっとも死骸から立ち上がり想起されたとき、頭には声としてのパロールが産声を微かにあげるが、不幸にもまた死骸を埋葬するかのようにエクリチュールに逃げ込んでしまう。どうして生きているものが想定されてあることを知っているのに、あえて死んだものに視線を送るのだろうか。生きているものは名が与えられていないだけなのに。思考され可能なものには名前がつけられているが、これでは可能から可能へ巡るだけではないのか。知っているものから知っているものに平行移動する行為を進歩と呼べるのだろうか。横に滑っているだけ。何も変わっていない。増えているが本質的に増えていない。まるで造幣局が紙幣を印刷するのと同じ。不可能性に関わらずして、真の跳躍はあり得ない。不可能性こそ、生き生きとした悦ばしき知識が充溢している場なのである。不可能性は一見すると無価値にみえるから、飛び込むには勇気がいる。さらに言えば、無価値にみえるときの視線を規定しているものが死骸たるエクリチュールでもある。
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