問うこと

マルティン・ハイディガー。「形而上学入門」の抜粋からはじめよう。そのあとに若干の解釈を付す。

「存在者は、それがあるところのもの、それがあるとおりのものとしては存在しないこともありうるという、問うに-値することを、同じおのれから払いのけることはできない。われわれは決してこの可能性を、われわれが初めて考え加えるに過ぎないものとして経験するのではなく、存在者そのものがこの可能性を告知し、存在者そのものがおのれをこの可能性の中に存在するものとして告知するのである。われわれの問うことはただ、存在者がこのような問う-に価する状態で突入裂開しうるように、その領域を開き示すだけである。まだわれわれは、このような問うという出来事についてあまりに少しの、そしてただ大まかなことしか知っていない。問うことおいてわれわれは全くわれわれ自身に属しきっているかに見える。けれども実は、問うというこのことがわれわれを開けたものの中へと押しやるのである。もっともそれは、問うことが問いつつ自分で自分を変化せしめ(真の問うことはすべてこうなるのだが)、それがすべてを超え、すべてを貫いて一つの新しい場所を投げ開くということを前提した上で言えることであるが。」

平凡社ライブラリー「形而上学入門」

問うとは、私が問うというように私に属するものであるようだが、問われるものに向かって、問う私自身をも引き摺っていく。問いつつ問いそのものと手を繋ぎながら、私も変化する。このようにして初めて存在者と対面する。端的に問うものが私であるが、私とは問うという特殊な形態(私とは問いが一心同体になる)であるから、存在者の告知を受け取るときに、その形態を変容させる。変容する問う私は、恐らく問いの仕方も変えるだろう。存在者とそれを問うものは繋がっているように感じる。存在者と私のあいだの橋となっている問いは、私のほうから発信されているようだが、存在者のほうからも可能性を開示するとき、問う側の態度により開示の仕方も変わるだろうから、問う私に方向性はないのではないか。問うという出来事にはついて、ハイディガーのいうように、あまりに少しの、そしてただ大まかなことしか知っていない。「問い」の問題はあまりに奥が深い!

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