有限責任会社
まずデリダ「有限責任会社」。脱構築についての引用からはじめよう。あとに夢想的な解釈をしてみることにするが、未完成である。
「…脱構築は、二重の身ぶり、二重の学、二重のエクリチュールによって、古典的二項対立の転倒と体系の一般的転位との両方を実践しなければならないのである。ただこの条件においてのみ、脱構築は、自らが批判する諸諸の二項対立の領野、非言説的諸力の領野でもあるこの領野へと介入する諸諸の手段を自らに与えるだろう。他方、各各の概念は一つの体系的連鎖に属しており、またそれ自身で諸述辞の体系を構成してもいる。それ自体で形而上学的であるような概念というものはない。あるのはただ、諸諸の概念体系に働きかける一つの作用=労働であり、それが形而上学的であったりなかったりするのだ。脱構築は、ある概念から他の概念へ移行することに存しているのではなく、ある概念秩序とそれが自らを連接する非概念秩序とを転倒かつ転位させることに存しているのである。」Jacques Derrida
二項対立について調べたい。ここで私の若干のアイデアを採用してみる。すなわち他者aと他者bと他者cの三つの概念を考える。二項対立とは他者aと他者bの対立とする。しかし、この二者には相反するという関係性がある(a↔︎b)。ひとつの他者はひとつの体系をもつが、ひとつの他者の体系は、もうひとつの他者の体系から導きだすことは不可能である。デリダのいうように、脱構築は概念から概念に移行することにあるのではなくて、概念秩序とそれが自らに連接する非概念秩序とを転倒かつ転位させることにある。独立した三つの他者という概念秩序が、なんの基礎づけなしに存在すると仮定する。このうち二項対立になるふたつの他者(ab)と、それを二項対立とみなすもう一つの他者cが想定される(だが客観ではない!)。これが、この領野の介入し働きかけるものとする。二項対立の他者同士は概念から概念への移行に近いから概念秩序の範囲内にある(と勝手に解釈する)。しかし、それを規定している主体(他者c)は誰なのか。二項対立に対して自らを連接する非概念秩序という主体、すなわちもう一つの他者c=彼は二項対立の解体をしながらも、自らも解体する。誰もいない。あるいは解体する働きかけをするものと、同時に自ら解体するものだけである。繰返す(反復しよう)。確実にあると言えるものは、働きかける存在、あるいは介入する存在である。だが、それさえも宙に浮かんでいるようだ。
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