「ある」のに「みえない」

未来は未来にあるのではなく、現在の中にある。ここで仮に現在あるものを読解不可能なものと読解可能なものに分けてみる。読解という言葉に特に深い意味はない。不可能と可能よりは理解しやすいから。未来的なものは、この読解不可能なものとして現在に眠る。読解不可能なものとは了解不可能なものでもある。了解不可能なものは存在しているのだが、価値ある存在とは看做されない。手が届かないものは無いに等しい。ただし志向性すらないことが条件である。眼の前にあるものと期待しているなら、手が届かないものは、手が届かないものとして不満の感情を抱えつつ「みえて」いる。未来的なものに限らず、過去的なものにも同じようなことが言える。過去の存在を決定するのは現在から延びる精一杯の可能性の手による。いずれにしても読解可能という過程なしには、存在価値が与えられない。読解可能の完成は、共通の理解を獲得するというかたちで収束する(反覆可能性)。つまり価値の確定である。存在価値とは、いきなり存在価値になるのではなく、徐々に段階を経て存在価値の地位を獲得する。誰かある人が、路傍に捨てられてあった希薄な雑草(存在)に着眼する。そこに新たな意味を発見して彩りを添える。すると、吸引力が集結して、その存在に価値が積みあがって行く。個人的に、この地点ではもう遅れたもの(常識になったもの)であるから興味はない。過去に軽視されていた価値が、いま評価され確定されているように、いま軽視されているが、未来に評価が確定するであろう価値があらゆる場に眠ったままでいる。いまだ読解可能とならないために。また読解可能か否かを精査するに値しないものとして注意すらされていないために。存在価値にはこのような注目されるか否か、さらにその注目度の質的量的な大きさに紆余曲折の歴史がある。いわゆる目利きとは、未来の価値を先取りする能力のことだ。この能力はあらゆる場で絶大なる効果を発揮する。不安要素が多く感じられ確信するには能力に加えて、自己の判断に絶対の自信がないと目利きにはなれない。はじめに現世界を読解可能なものと読解不可能なものに分けたが、虚世界と実世界に分けてもいいだろう。(厳密な定義で言っているのではないが)。感覚的に理解されたい。われわれは実世界にのみ生活している。だが、虚世界をも同時に経験している。虚世界とは「ある」のに「みえない」世界のことである。虚世界の了解は実世界からは不可能になる。なぜなら虚世界は虚世界の規則で動くので、規則すら理解不可能だから。人類以外の生命体(宇宙人?)を想像してもらえればいい。(余談だが宇宙人と接触するのに適している職業は科学者ではなく思想家であるだろう。科学者は科学的な呪縛に捉えられている!)。実世界でも一見すると混沌にみえるものに、秩序を与えることにより理解可能になる場合がある。(わかった!とは霞と混乱に秩序をみつけたとき生じる一過性の心的現象である)。しかし、虚世界においては、秩序づけの基礎となる前提すら不確実で実世界の規則から切断されているので、完璧な不可能性のなかにある。「みえない」ものは「みえない」が、人間であるから、漠然と感じることならできそうだ。逆に「みえる」ものだけに重きを置きすぎるのは危険だろう。「何となく、漠然と感じる」のは大切なことで、新しい世界観のひらける萌芽の兆しであるに違いない。「曖昧模糊とした混乱と不安」は絶望であるどころか、見方によっては希望である。混乱している世界に敢えて積極的な態度をとることが、結果的に良い方向に向かう予感がする。

渋谷昌孝(Masataka shibuya)

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