賭博者

あるグループに属する人たちが、ある事柄に対して理解を共有しているとする。別のグループの人たちは、そのある事柄に対してまったく理解を示さないどころか、理解しようとしても理解できないとする。ここで前者のグループと後者のグループとで、どこに違いがあるのだろうか。理解を共有しているのが事実なら、そのある事柄は理解できるはずである。理解しないグループの人たちは、理解していないのだから、その事柄について判断することができない。判断するためには、少なからず理解していなければならない。また、彼らは理解の及ばない事柄を無かったものとするだろう。つまり無視する。否、無視するのではない。はじめからないものなのだ。ないものを無視できるはずもない。理解を共有するグループの判断と理解しないグループの判断はまったく違ったものになる。判断の結果が異なるということだ。両者の違いはどこにあるのだろうか。ここからは一気に話しを飛ばして(あたかもコロナに匙を投げる政治家の如くに?)読書論になる。はじめ手にとる本は全然理解ができないものとする。活字の無意味な羅列に感じる。読んでいても記号の上を視線がつるつる滑るだけで感触がない。このとき、手にもつ本は自己にとって他者(理解不可能)である。だが手にとって見ているので、少なくとも無視していることにはならない。何か意味のある内容が含まれていると確信するならば、この本という名の他者との格闘を試みるだろう。しばし格闘ののち(この間は非常に不安である。出口のない迷路の中で途方に暮れる…)ある日、急に理解できる瞬間が訪れる。それも全く予期しなかったかたちで。非自己であった他者(本)の内面化に成功したのである。理解できなかったものが理解できたとは、多分に跳躍と飛躍による要素が大きい。まず理解できないものを固定して狙いを定める。本であれば、鳥のように逃げないように手元に常に置いておく。以前は無意味な活字の羅列であったものに意味を見いだす。非自己だったのが自己の一部として内面化されるという過程で、自己は変わる。自己が変わるとは、以前の自己でなくなったことを意味する。別人になるわけではない。認識の仕方が変わり、物事の見かた全般が影響を受ける。同じものを見ても見え方が変わるようになる。注目するものが変わる。何より出発点から変わる。この変化は外からはわからないので、格闘して傷だらけになった内的闘争の残滓すらなんら意味をもたない。唯一の恩恵は、前よりも明敏になった心の眼を新しく所有する、この自己自身に対する充溢感である。だが、変わるまでの跳躍は一種の賭けである。もし賭博者になるつもりなら!



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