仮説「自己モデル」

自己のモデルを考える。自己は纏まったひとつではない。自己に中心もない。自己と非自己の境界も曖昧である。自己は意識をもっているらしい。だが、意識すらはっきりしない。意識があると想定されてから出発するのが常であるが、意識の生じる以前まで遡って考えたい。物事を説明するために、説明が容易になるような仮説をつかう。その仮説を自己モデルとして大雑把に描いてみよう。不備が生じたら修正すればいい。まず紙に円を書く。これを自己の全体とみなす。円のなかに他者を無数に書き込む。自己モデルとは、これだけである。ここで他者とは、他なるものであり、知られていないものであり、理解されていないものであり、わからないものであり、存在として認知されていないものの総称とする。だから私のいう他者とは、無(ないもの)である。他者と名づけた無(ないもの)の集合を自己と呼ぶことにしよう。ないものを幾ら集めたところで、ないものに変わりない、とは当然の主張である。私が着目するのは、他者と他者の関係である。他者は単独では、なんの意味を有しないが、他者と他者が交渉し運動をはじめるときに、意識なるものが出現すると想定する。つまり、他者どうしの動的な関係のみが有(あるもの)になる。他者の共同体としての自己モデルにおいて、関係性というものが、意識の始源ではないか。他者と他者の擦れ合う摩擦が、意味誕生の最初ではないか。もともと紙に書かれてあった意味のある内容が、引き裂かれて別々に分離されている状況。虚数と虚数を掛けたら実数になるようなイメージである。他者とは、また不可能なものでもある。これらの他者(不可能なもの)の相互作用あるいは関係性によって、可能なもの(意味または存在)が立ち現れる。自己とは、空白な他者の集合であったとしても、関係性(他者どうしの)が動くものとしてあるならば、決して空虚なものではなく、意味と存在に満ちた自己になるだろう。自己の内部に、他者という不可能な非存在を無数に配置するというのが、自己モデルの要諦である。自己にとって内部にある他者は理解不可能なものであり、自己のなかにあって自己ではない。不思議なことであるが、自分のなかに他人が住んでいるようなものなのだ。それも知っている他人ではなくて、全然知らない他人である。あまりに現実からかけ離れていると思われるかも知れない。だれもが自分を知っていると思っているし、まして自分の中に自分の与り知れぬ者を宿しているなんて不気味で納得し難い。それはよく承知しているつもりだ。けれども、例えば、何となく不機嫌であるとか、説明できないのに不合理な行動をしたとか、漠然と不安だとか、自分ではないような特別な感覚など、多くの人が共通して経験しているのも事実である。了解不可能なものは、自己の内部と外部に等しくあると見做していいだろう。自己のなかには、了解不可能な他者たちしかいないと想定したモデルが、仮定としての自己モデルである。そして、了解不可能な他者の相互作用によってのみ、言い換えるとこれらの関係性によってのみ、意識をもつ主体が浮きでる。まだ自己という枠だけの考察にとどまる。外の世界まで範囲を拡大していない。関係から生じるということは、少なくともふたつ以上なければならない。半熟のアイデアを示しただけであるから、おのおの考えてみて、足りないところは補って欲しい。まだ実験的段階で、これから先にまだまだ沢山の課題が山積している。まず書き留めないことには前に進まない。

渋谷昌孝(Masataka shibuya)

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