空箱

言語は空箱のようなものだ。この空箱のなかを数多の意味が素通りする。言語は定義されているとしても、はたして定義通りに使われるものだろうか。一個の言語に対する思いは多種多様であるはずだ。言語は使用される人のもつ思いによって千差万別であるから、ある人によっての言語は、ほかのある人にとっての同じ言語と異なる意味になるだろう。共通した言語を使っているはずなのに、その意味は違ってくる。了解しあっているように見える会話だとしても、内容を互いに正確に共有することはできない。話が通じるというのは奇跡的なことである。仲介する言語は空箱であって、互いの主観的な意味をはこぶ役割しかない。記号となった空箱は、各個人だけが保有する意味を乗せて耳と眼に入ろうとするが、言語を使いながらも言語の中身を知ることはない。操っているのに操っているものを知らない。言語は、皮膚のように余りにもぴったりと言語使用者に密着しているので、自分の所有物であるかのようにみえる。しかし、言語のなかに真の意味を付与できている、あるいは、意味を表現しようとしてもそれに見合った言語が選択されているとは思えない。言語が正しく選択されているかどうかなどわからない。また言語の厳密な駆使なんて不可能であるし、確かめようがない。伝わるものは、言語の連鎖から推測される曖昧な印象でしかない。どうも曲解しかない、という結論に逢着してしまう。真に意味が共有されることはあり得ないのだから。会話とは誤解にほかならない。相手の言語の意味するところを自分の、その言語の印象を当てはめ類推することによって内容を把握しようとする。だから厳密な意味の交渉は不可能である。道具を使いつつ道具そのものの正体を知らないのだし、道具すら正確に使うことができない。喋っているのに喋っている意味については知らないというのは奇妙なことである。実生活では了解に成功しているのにもかかわらずだ。世界と世界が接触するあいだに言語があるとして、これはいったい何なのだろうか?言語は、ほんとうにこれらふたつの世界を繋いでいるのだろうか?

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