ジョブ遊覧飛行

仕事をしないで、仕事について考えてみる。仕事をしているときに仕事のことは考えても、仕事の本質については考えない。そんなことをしていては仕事は仕事であることをやめる。いったい仕事とは何だろうか?人は仕事をするという。確かに仕事をしなければ生活できない。だが仕事をするというとき、仕事とは何であるかについて知っているのだろうか?仕事は仕事に過ぎないのか?仕事のという言葉の先に進めないのだろうか?大概の場合は、あたりまえと言って一蹴され相手にもしてくれない。でも、あたりまえに思われている仕事について、端から当然と思わないで、考えるに値するものとしてみたい。なぜかといえば、仕事に対する一種の強迫観念のようなものに侵されている人があまたいると想像するからである。はじめに仕事ありきからスタートするが、肝心の仕事そのものについてよく知らないのではないかと思うからである。仕事は仕事に違いないが、仕事の本質からみえてくる新しい景色があるかもしれない。異端視されることにもう慣れっこになっている私は、敢えて馬鹿にされるのを承知で仕事について考察してみることにしよう。一概に仕事と言っても範囲が大きすぎるので、限定した条件のなかで考える。具体的には、家事労働とか人類共通の遺産のような極端を除外する。また病院などの公的機関も考慮しないことにする。まず常識的に考えるなら、仕事とは自分以外の誰かの役に立つことである。誰かの役に立たない仕事というものを想像することができない。なんらかの貢献が機能しているからこそ対価としての報酬が生じる。貢献を機能させるために集団(労働力の集合)として行うことが普通である。これが一般に言われている仕事であって、企業に属して働くことになる。なぜ企業や行政などの組織形態にするのかといえば、互いの能力を補完し合いながら目的が達成できるからであろう。ひとりで行うよりも効率がいい。ある人が得意なことは、また別の人には苦手であり、その逆もあるからである。だからといって仕事の原則は変わらない。自分以外の他人に貢献することに変わりはない。盲点があるとするならば、貢献が貢献とならなければならないが、これは双方向にコミュニケーションが成立することを意味する。つまり、相手のためにやったと思い込んでいたものの、それが実際に相手の役に立っていないのならば貢献にはならないので、対価も生じない。独りよがりなおかつ自分勝手な貢献は貢献とならない場合があるという事実に注意しよう。耳にタコができるほど見聞きしているであろう、顧客の立場からという意味はそうゆうことだ。顧客とのコミュニケーションなしに、一方的な貢献をしても仕事とは見做されない。対価としての報酬はどのような経路を辿って私たちの手に落ちるのかといえば、直接あるいは間接的に相手(顧客)から得ている。シンプルに考えれば、誰かの役に立つ行動がそのまま仕事になる。ただここまでの理解では慈善事業と同じになってしまう。慈善事業は対価を期待していないので仕事を論じるうえでは現実的ではない。顧客が「どうしても」という言葉を発する必要がありそうだ。あってもなくてもいいのなら報酬をだすまでには至らない。「どうしても欲しい」「どうしても必要だ」「それがなければ生きていけない」「定期的にどうしても必要である」などの顧客の思いは端的に、ある欠如を示している。この欠如と交換されるものが、商品でありサービスである。だから商品が売れたということは、誰かの欠如がこの商品が埋め合わせたということになる。商品あるいはサービスによって、欠如がもはや欠如でなくなったとき報酬が支払われる(結果として満足する)。欠如は初めからあるものと、また意図的に創造される欠如がある。後者の場合の典型はスマートフォンだろう。スティーブ・ジョブズ氏が発明するまで世界になかったのだから。だが、一旦普及するともう生活必需品となってしまった。これは架空の欠如が創造されたいい例である。スマートフォンはいまではなければ困るだろうが、ない時代には、なくてもよかったものである。その証拠に、スマートフォンが発明されるまえにスマートフォンが欲しいと言った人間は一人もいない。原理的に無いものが欲しいとは言えないはずだ。ここまで書いて、何がわかったのだろうか。将来の欠如を予見することだろうか?どこに欲求があるのか見つけることか?欲求を見つけたとしても、新しい技術革新がその欲求の方向を変えるかも知れないではないか?そもそも仕事とは何なのか?

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