根源の不思議

あるものとあるものが関係するか、若しくは一致するかによってしか何も生じない。少なくともひとつ以上なければならない。完全なひとつは何も産まない。例えば、意識がある。意識が生じるためには、ふたつ以上の意識を生じさせるような何かがなければならない。なにかとなにかが衝突したときに意識が生じる。ひとつが一方向に流れるだけでは意識はない。滞留するか留まるかしなければカタチにならないのだから。たとえカタチになったとしてもやはり「ひとつ」からは何も期待できない。だから意識をもっている状態は、すでに二重の要素から成立していることになるだろう。「ある」とはそれのみ単独で「ある」ことはできない。「ある」ためにはふたつ以上による摩擦や関係などの交渉なしには出現不可能である。どうして「ひとつ」からは「ある」が生じることができないのか。ここで言う完全な「ひとつ」とは何を意味するのだろうか。「ひとつ」がそれを唯一の原因とした「ひとつ」として顕現することはできない。それでは「ひとつ」はどのようにして「ひとつ」となることができるのだろうか。先に「ある」の出現のためには、ふたつ以上の要素が必要だと言った。だが、ふたつの「ある」はやはり「ひとつ」のふたつ(二重のひとつ)から始められるべきである。どこから出発できるのだろうか?世界にしても人間にしても唯一である「ひとつ」からは誕生できないのは明白である。では「ひとつ」を飛び越えてしまっていいのだろうか?「ひとつ」を「ある」ものとしてしてしまい、次の話に跳躍してしまってもいいのだろうか?これらを思考しているものは既に「多」で満ちている。私という「多」のもっともはじめの段階と想定される始原まで遡りたい。つまり原因の原因について。これらの議論をすでに「多」である私が思考しているということも主題と共に考慮されるべきだろう。「ひとつ」からは不可能と主張する「多」としての私が「ある」というように。主題は「ひとつ」からは何も生じないと言われながらも(主張しながらも)、その議論の主催者は、私という両義的な存在である(暫定的な確信)。何を意味しているのかというと、「ひとつ」が不可能と主張する私と、そのように言われている(俎上にのせられている)主題である「ひとつ」というものが私と別個にあるのではなく切り離されていないということになる。私にぴったり癒着しているものについて癒着的に観察している。現象学的な考えからすると、対象を純粋に対象として考察するのではなしに、主体との関係あるいは一致の観点から調べざるを得ない。根源を考えるとき、もうすでに考えられている根源が、私というもはや根源ではないものによってしか考えられないような具合になり不思議に陥ってしまう。

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