特殊商品としての書物
あらゆるものを商品と見做すことができると仮定した場合、特に書物という商品について調べてみたい。というのは、これが他のどの商品よりも特殊に思われるからである。マルクスは「資本論」を著したが、これは書物であった。演説等で思想を表現するのは、より噛み砕きわかりやすくするためである。その生の演説でさえ書物の形式に置き換えられる。さて、一般的な商品と書物という商品とでは、どこがどのように異なるのだろうか。一般的な商品はたいていの場合、その用途がはっきりしているように思われる。つまり道具のように使用のされ方が一面的であり決定されている。商品に方向性があるとするなら万人に対しても同じ方向を指し示している。例えばクルマは移動したり荷物を運んだりするが、それ以外の用途ではあまり使われない。洋服や家なども同様で目的からあまりに遠く離れた消費の仕方はなされない。書物は違う。もちろん実用書など目的がはっきりしていて道具としての割合が高いものはある。ここで書物一般をどのように定義すべきだろうか。一般的な商品には道具性としての明らかな方向があるから、その反対を考えよう。例えば、詩集や小説などである。詩集や小説に万人に共通した目的はないように思われるし、商品とも言い難くまた消費されるという言い方にも違和感がある。読み手によって解釈が一様ではなく、その価値についても読み手の性別や年齢あるいは知識や経験、感受性等により変動する。書物そのものは変動しないにもかかわらず読み手の態度によって変化する。このような書物を仮に商品と呼ぶことが許されるとしても、特殊な商品であることに変わりがない。普通商品の消費のされ方に一定の方向性があるのに対して、書物の多くに読み手の介在の自由度に差異がある限り方向性についても自由になるだろうから。100円の書物が100万円にもなり得るだろうし、その逆もある。(運命的な出逢いや感動、人生の方向を決定づけるきっかけには値段がつけられないが)。
書かれた書物たちには、作者の知的な労働力が投入されている。その労働力の多寡を判断したりどのように解釈するかは一重に読み手に一任されている。特殊商品としての書物に商品の地位を付与するのは読み手自身である。書物と読み手は互いに深く関係している。書物は凍結しつつ作者の労働力をそのなかに凝固させながら待機しているが、読み手のほうは日進月歩変化している。実に、読み手は書物に内包されている作者の知的な労働力を咀嚼し玩味することで立場を変えながら動くのである。書物から書物へ絶えず循環することによって書物自体の価値が変わったような錯覚に陥る。そして以前は無意味にみえ価値すら判断できなかったものに再び新しい価値を見いだすようになる。これらの過程を詳細に観察すると読み手と書物とが相互に作用し合い、どちらが主役なのか判然としなくなる。書物から獲得しているがそれはまた、新たな書物の価値へ「橋」をも形成している。書物から何をどのくらい汲みとるかは読み手の力量に依存している部分が大きいという意味で、書物はやはり特殊な商品といえないだろうか。作者の特異な能力の凝固物であり、同時に稀な労働力の集積場であるのが(幾分大袈裟であるものの)書物の本質ではないか。(ここでは書物の定義を保留としておく)。
0コメント