もぐもぐたいむ
「あるもの」を見たり考えたりするとき、決してその「あるもの」だけを純粋に見たり考えたりすることにはならない。というのは、私が見たり考えたりする限り、「あるもの」は私という人間のなかを通過しなくてはならないからである。「あるもの」は「あるもの」として純粋に見られるのではなくて、いったん私という領域のなかを滞留してから外に向かって「あるもの」に到達する。つまり「あるもの」は私の様式で見られている。「あるもの」は、したがって私の様式によって把握されるという性質もっている。「あるもの」は私の仕方でみられ考えられ理解される。だから「あるもの」は私を通じて常に関係しながら見られていることになる。
順序がある。まず私という内界からはじまり、外界へと移行する。私の外側のあるものは同時に私の内側との連絡を保っている。そうすると外と内の境界が身体であることになるだろう。身体は外界から刺激を受けながら同時に身体の内側からも刺激を受けている(身体は板挟みになっている)。私とは二重に私であり、つまり身体の内側の私と、身体の外側の私とである。私の思考はこの身体の内側から出発していることに疑いの余地はないように思える。たとえ思考の契機となる刺激が私の外側から到来するにしても反応するのは私の身体の内側からである。私とは身体という境界によって切り離されている幽閉された存在などではなく、身体という境界の外と内とを含んだもっと広い存在なのだ。決して身体に閉じ込められた孤独な存在などではなく、身体という境界の外側の世界も私であるはずである。
もしこのような考え方をするならば(私の外側にあると思われている世界をも私として見做するならば)、おかしいことになってしまう。他人すら私となってしまうから。世界は私が創ったものでは無論ないが、可能性として私が保持している唯一の死(死とは私の未済である唯一の可能性である。死の完遂が、その可能性を可能にして終わらせる)が履行されるならば、その瞬間に世界もなくなる(私の世界が)と想像できるので、この世界に住んでいる他人すら私の死を契機にいなくなる。ならば、他人と私は同じと考えてもぜんぜん矛盾しない。これを書いているうちに論旨が変わってしまっているのに気がついているのだが、冒頭では、私の外側の対象についての認識について、それが私という主体の介入が必ずあるかぎり、いくら客観と言ったとしても私の色に染まっていることが避けられないので、純粋に対象を観察することは不可能であると述べたのだったが、主体と対象を混同するようになり、ついには、この二者を分つ身体という境の前後の価値を区別しないで、同列に扱うほうに考えが変わっていってしまった。(書きながら思考を変容させる癖がある。はじめから書くことを決めていない。コンピュータにはできないことだと思う)。
次に問題になるのは、真理についてである。いわゆるプラトンのいうイデアである。ここまでの考えは人間的な話であったが、イデア的真理は人間的なものから乖離しているように思える。たとえ人間が存在せずともイデア的真理はあり続けるだろう。この真理は、はたして人間にとっての真理であるのか、それとも人間とは無関係に独立して真理があるのか。おそらく真理は無限にあるに違いないが、当面の真理とは人間の理解に耐えられるものに限定される。人間の知力で理解できないものは、それがたとえ真理であっても真理として了解されない。了解不可能な真理を認めてしまえば、理由や理解が放ったらかしになってしまい、反論したり批判したりする手段がなくなってしまう。これは人工知能に関しての倫理的な議論につながるかもしれない。
…中断…もぐもぐたいむ。
どら焼き
羊羹
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