「藤井聡太」的な「AI」的な

藤井聡太とAIについて考えてみたい。藤井氏がAIと同じような手を指して話題になったことがあった。彼と対戦した相手は「この手が仮に正しいとするならば、これまで培った常識が根底から否定されるような、そのような手である」と述べた。つまりAIの手に近いかそれと同等な未知な指し手であったわけだ。藤井氏に限らず、ほとんどの棋士がAIのソフトを研究している事実は周知のことであるけれど、実際に対局の場面でいわゆるAI的な手を自然と指した事実が大きい。並の棋士にはできないことである。理解していない手は実践では使わないし使えないだろうから。また藤井氏はAIに近い将棋をするとも言われる。端的に考えるなら、これは脳の拡張現象といえるのではないか。AIの力を借りてというよりは、AIと協働してと表現したほうが適切だ。藤井氏の頭脳とAIが融合している感覚に近い。
これは別に将棋に限った話ではない。藤井聡太は新しい人間のモデルになろうとしているか、もう既になっているといえる。将棋というゲームを超えて一般的に広く適応できるように、このモデル(脳×AI)に汎用性をもたせたい。藤井氏のこの新しいモデル(脳×AI)をもっと一般化させたい。個人が自分の頭だけを使うのではなくて、AIをあたかもクルマの両輪のように使う具合に。具体的なイメージを挙げるならまたもクルマである。ハンドルを握ればどこにでも行けるし、パワーとスピードが桁外れである。これは移動における人間の運動能力の拡張であるが、同様にしてAIと協力関係を構築することで人間の脳を拡張させることが可能なはずである。この新しい人間モデルの典型を藤井聡太氏に垣間みることができる。ただ問題がある。クルマの運転なら免許を取れば誰もができるのに対し、AIを使いこなすには飛行機よりももっと困難で宇宙船を動かすようなものと想像されるからである。

ここで誤解してもらいたくないのだが、私が考えているのは、AIを自分と切り離した対象とする概念ではなく、あくまでもAIと自分の脳を直結させることだ。必ずしも脳にチップを埋め込むという意味ではない。藤井氏が将棋という世界でやっていることを、そのまま現実の世界に応用できないものだろうかと密かに期待したいのだ。将棋というゲームに不確実性は皆無だが(奥が深いとはいえ有限!)、現実はその真逆(無限!)である。藤井氏はAIという乗りものに易々と乗ることに成功しているようにみえる。普通の将棋士と違うところは、AIの指し手の理解度である。例えるなら、クルマは機械の意味を理解しないでも運転できるが、AIについてはどこまでその解を理解するかが焦点になるだろうと予測する。人の思考をどこまでAIの思考(機械的思考?)に近づけるかと言ってもいいかも知れない。
AIと自分の脳とを協力関係におくことで、脳を拡張させることが可能になる。ただやはり不確実な現実な世界にどのように適応させればいいのかが問題は残る。これまで私たちが脳の拡張といえば、おそらく読むことが主であった。もっとも世界が映像的になったから必ずしも文字がすべてともいえない。文字を介さず映像を映像的に処理するという知性もあり得る。AI的な思考に肉をもつ脳味噌を近づけるという試みは、人間的な思考を機械的な思考に近づける試みに等しい。ここまで書いてきて思うのは、幸福についてである。知性の肥大が人間の幸福に結びつく保証はない。心の豊かさについても同じである。AI的とは反感情的なものであり、感動するとか驚嘆するとか感銘を受けるなどの、人間が人間から直に心を動かすという情動を無視するものである。肉のようの匂いは一切ない。肉(身体)がないから無意識もない。夢も無いに違いない。知性は加速するだろうが(金融工学の如くに)、幸福かどうかはまた別の話になるだろう。
夢のない話であった。

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