〈ないない〉言語ゲーム
だれが〈ない〉と言えるのだろうか。確かに言葉の上では、だれでも〈ない〉と言うことができる。しかし〈ない〉だけを分離して取りだすならば、おかしな話になりはしないだろうか。〈ない〉と指示されるものは〈ない〉のであるから、何かが〈ない〉のである。この何かを無視するなら〈ない〉は〈ない〉となることはできない。〈ない〉と何かの関係は、私と私の心臓の関係に似ている。つまり〈ない〉は、この何かと分離することはできない。常に何々が〈ない〉という言い方がなされねばならない。ここで〈ない〉の代わりに〈無〉と置き換えるとどうなるか。
〈無〉がある。と言うときいったい何を意味しているのだろうか。これは〈無〉=0だからといって、「〜がある」とか単に「ある」と言っているのではないのは明らかである。ここで〈ない〉と同様に〈無〉だけを抽出してみよう。辞書は白紙であるべきなのに「ないこと、存在しないこと、欠けていること」等とわざわざ説明する。〈無〉の説明とは言っても十分な内容(重み)がしっかり〈ある〉。〈ない〉ものを説明しようとすれば、その説明内容という重みが〈ある〉というようにして〈ない〉の意味を知ることになる。このように〈有〉に対しての〈無〉であり、〈ある〉に対しての〈ない〉であり、両者を切り離して意味は成立しない。切り離すどころか、接着しているいると考えたほうがいい。双方は双方の意味を気に掛けてつつ意味を成り立たせている。
では〈ない〉と〈ある〉とが密着しており分離不可能とは何を意味するのか。分節されないという意味になるのか。〈ある〉が〈ない〉の理解が容易である一方で、〈ない〉が〈ある〉というとき、その意味が理解できないのはなぜか(日本人だからか?英文法考慮)。前者は、かつてあったものがなくなった(消滅した)、というふうに理解できる。後者はどうか。〈ない〉が存在する、という理解になるだろうか。〈ない〉が存在するとは、さらに削ぎ落とし簡潔に表現されるならば〈ない〉だけになってしまうが、これは困ったことだ。なぜなら〈ない〉は単独では〈ない〉になることができないはずであった。〈ある〉→〈ない〉は可能で、〈ない〉→〈ある〉は不可能なのか?順序が入れ替わっただけで、どちらも〈言葉〉→〈言葉〉である!
矛盾はどこにあるのだろうか。〈ない〉と言葉で表記していることが問題なのではないだろうか。〈ない〉という語は、〈ある〉ものを減じたり否定したりする役割がある。〈ない〉は〈ある〉ものから削除していくのであって、〈ない〉からは何も生じない(リア王!)。〈ない〉は明らかに〈ある〉を伴いながら〈ない〉を実現するのであり、〈ある〉なしに〈ない〉に意味はない。しかし、日常的には〈ない〉は〈ある〉という存在をあらかじめ前提したうえで使用されている。〈ない〉は〈ある〉ものに対しての〈ない〉であるが、この一連の論理は、言語ゲームに過ぎないかもしれない。言葉の綾とか技巧に過ぎない。言語ゲームの表層をつるつると滑っている。本質的なことは何ひとつ言われてはいない!
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