彼シリーズ「人類博物館」
「これは何です?」と思わず私は声を荒げた。館長はにやりと笑って「これは見ものですよ」と応じた。通された場所には四角く整然と並んだ幾つもの田んぼのようなものが広がっていた。稲作とは随分と平凡だなと思ったが、館長は突然なにか深刻な問題でも考えているような顔つきになった。そしてこういった。「これが人類の求めていた世界です」。私は一瞬面食らった。「人類!人類ですって?」と思わずおおむ返しに言葉を返す。「ただの稲作がどうして人類なんですか?」とさらに叩きつけるように語気を強める。「ははあ、まだお分かりになっていないようですね。これは稲作などそんな穏便なものではありません。よくご覧なさい」。私は眼の前に広がる水田を詳細の調べてみた。稲と見えていたものは、マッチ棒のような細長い形をしていることに気がついた。水田にマッチ棒を植え付けるなんて似つかわしくないなと不思議に思いつつもう一度、こんどは研究者の目線でもって調べる。
規則正しく大地に植えつけられているマッチ棒に見えていたものは〈まるでジャコメッティの彫刻!〉極度に脆弱で弱々しい細い人の姿をしていることに突如!あたかもいま覚醒したかの如く判明したのである。その細い小人達は、田んぼの稲のように綺麗に並んでおり、その場から一歩も動かず直立姿勢のままでいる。背丈もどれも同じで集積回路の部品のように決まった姿勢を維持しながら個性を没した状態でただただ整列して立っている。栽培された稲や小麦とまったく同じ不気味な情景である。「これはもしかしてぜんぶ人間ですか?」と些か狼狽気味に訊ねる。「その通りです。人間です」。興味と不安の入り混じった複雑な気持ちを抱きながら「いったいどんなわけでこのような奇妙な進化を遂げたのですか?このように動かずに整然とまるで栽培されている植物のようなものが人間だなんて!」「栽培とはいいところを突きましたね。実際かれらは栽培されているのですよ。誠に頼りないひょろひょろの葦ですがね。その先端に膨らんでいる箇所が見えるでしょう。それを収穫するのです。まあいわゆる頭ですね。それにしてもパスカルは名言を残しましたね。『考えない葦』と言っていいでしょう。こんな事態になるとは想像だにしなかったに違いありません。人間である唯一の砦である、考える尊厳を失ってしまったのですから」
私は奇妙な感情に駆られて言った。「人類が稲や小麦を栽培するのではなく、人類が栽培されているのにはどうも納得がいきません。家畜の飼育や植物の栽培は、人類の叡智によって発明されたものではありませんか?」。「もちろんですとも」。館長はいかにも当然というが如く平然と言い放った。しかし現実は逆転している。これが進化と呼べるのだろうか。人類の歴史的な退行ではないのか。私は納得のいかないこの歴史的経緯について館長の説明を求めた。
「つまりことの顛末はこういったことなのです。あなたは人類の世界のほんの一部しか見ておられないのです。彼らはメタバースと呼ばれる仮想空間に住んでいるのです。メタバースの初期の頃はまだ現実のほうが優勢でした。人類は歴史的な感染症を契機に現実空間と仮想空間という二つの世界を構築したのですが仮想空間、いわゆるメタバースに生きる割合が急速に加速したのです。そしてその割合は0対10になってしまったのです。はじめの現実世界からメタバースというもう一つの世界に枝分かれして、結果として現実世界を無化してしまったのです。なってしまったという言い回しを使いましたが、かれら人類が望んだことなのだから誰にも責任はありません。これこそ今あなたがご覧になっている情景ということになるのです」
それにしてもと私は館長にまたも噛みついた。「あなたの説明はよく理解できます。しかし一点だけ腑に落ちないことがある。それはもはやゼロとなった現実世界を牛耳っているのは誰なんです?あなたは人間の頭を栽培して、それを収穫するといいましたが、その主は誰なんですか?」「いよいよ本質的なところ、心臓のほうにきましたね。その主は人類自身と言えます。人間は人工物を膨大に造ってきましたが、人工知能の台頭を境にみずから創造した人工物を持て余すようになったのです。つまり人の僕たる道具であるべき人工物が道具以上に格上げされたのです。そうして道具の支配下におかれたというのが大きな歴史の流れです。倫理的な問題については、もちろん長らく議論されましたよ。しかしながら、道具のほうが人間よりも常に正しくまた間違うこともないとの一般的な理由により国民の同意を得たのち、権力中枢の全権を人工知能などの道具に委譲したのです。これが人類史上最大の失敗であったことは明白でありますが、今となってはもう手遅れですね。SF的と言われてしまうでしょうが、現在から回顧するならSFは、将来的現実の陰画(ネガ)といえましょう」と言いながら、館長は得意になって尻尾を振る。私たちは人類滅亡後に進化した鼠の族なのであった。私も「チュ-チュ-!」と同意の意を表すことは忘れなかった。
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