二項対立の限界
知るためには暫定的に固定されている何か或るものがなければならない。というのは、知るとは何かを起点にして知るからである。例えば航海などで位置を知るために天空の星を手がかりにする。知が得られるためには、それ以前に前提とされた知を必要とする。終わりもなく始まりもない迷路の中にいる。ここで知というものがあるとするならば、何かを仮に固定させておいて、初めて得られる知であるはず。知とて泳いでいる。捕まえようとするものも同時に泳いでいる。このような場においては、どこかを固定したものと仮定しなくては事件が起こらない。知るとは事件である。「迷路で迷う」「溺れながら泳ぐ」はなんら手がかりのない状態であり、それゆえに永久に同じ場で滑って転んでいることを繰り返している。どこか欠損している。
知るとは或る手がかりをもとにして知るのである。ある手がかりがなければ、知を得るなど不可能である。つまり知ったとは、知られたものだけではなく、その前提となった手がかりをも同時に知ったということになる。明らかに二重性を内包している。しかし手がかりとはなんであろうか。手がかりもまた手がかりに基づいているのではないか。始原の知については謎が多すぎる。どこからどのように始めるべきなのか。そして通常の理解はどのようにして形成されたのだろうか。
ところでなんの手がかりのない知というものはあるのだろうか。単独で知は知となり得るのだろうか。知は何かについての知ではないのか。何かについての知でありなおかつ、その知は或る手がかりから派生した知でもある。手がかりとは根拠のことである。知はこの根拠とともに知られる。まったく孤立した知というものを考えることはできない。関係性なしに知はないだろうし、それでは意味がなくなるであろう。すなわち知となるためには、なんらかの意味と繋がっている必要がある。どことも連絡のないような世界にひとつだけの知は存在しない。存在したとしても無意味な存在としての知となってしまうだろうから埋葬された知である。
どうしてこのような議論になってしまうのかというと、無秩序を出発点にしているからである。通常の理解では、秩序から出発するからこのような経路は無視される。だが現実は明らかに無秩序である(無秩序に秩序を無理に押し込んでいるのだ!)。であるから無秩序を前提として話を開始しようとすれば、どうしても厄介な話になってしまう。無秩序が外にも内にもある事実を認めるとするなら、一体どのようにして理解に辿りつくことができるのだろうか。
二項対立の限界ではないだろうか。つまり主体を無秩序とし客体も無秩序とした場合において、なんら知も獲得できない。主体を秩序あるものと仮定して客体である無秩序を観察するとしても、このかりの仮定が頗る怪しい。客体を調べるために主体を仮の偽物にするようなものだからである。神の視点のように、天から鳥瞰する眼を前提としてしまうのも真実から離れている。二項対立を前提として思考するのが一般的であり、文法的にもそのようになっている。では二項対立を破壊する思考とはどのようなものか。実験的に座標軸を取りだしてみよう。X軸とY軸の平面図を考える。二項対立とはこのX軸上にあるものとして見ることができる。Y軸にはこれまでになかった思考があるはずだが、いまだ明らかになっていないように思われる。脱構築しようとする主体がすでに脱構築されているとすれば、だれが何をしようとするのだろうか?
0コメント