回転木馬
自己が自己を見るというのはよく考えれば不思議なことである。ほんとうの正体などだれもわからないからだ。もしわかっているという人がいるならば、その人には驚愕という感情は絶対に起こらない。驚愕するためには少なくとも自己と自己とに不一致がなければならない。またもし自己をほんとうに知っているというのなら希望も失望もないことになるだろう。なぜなら自己を完璧に知っているというのは、常にニュートラルの状態にあることだからだ。ニュートラルの状態からズレるからこそ、希望と失望の感情が浮き上がる。自己を完璧に知るのは不可能であるし、また完璧にコントロールすることも同様に不可能である。
自己を完璧に知るのは不可能であることは認めるとしよう。では少々なら知っているのだろうか。ごく控えめな意見でもってしても甚だ怪しいと言わざるを得ない。まずだれが自己を知るのかという問題がある。もちろん自己自身である。これがもっとも厄介な問題なのだ。なにが厄介なのかといえば、知るものと知られるものとの関係がまず不明瞭である。第二に知るものと知られるものとが一致しているのが自己であるからである。自己とは現象である。そして自己とはそのなかで知るものと知られるものとが邂逅する場所である。しかし更によく考えてみるとますます不思議だ。わからないものとわからないものとがいくら交渉したところで埒があかないはずだから。いったいどこに主題たるべき対象があるのだろうか。観察対象は観察者自身である。観察者は対象へと向かうものでありながら同時に観察される対象である。だれがどのように主題化をするのかだろうか。大きな問題はここにある。つまり主題化するものもされるものも同一であるのが自己の本性であるという点にある。これでは一向に主題化は期待できないのではないか。自己は永久に主題化されることがないのか。
自己の主題化が不可能であるとは、どのようなことなのか。または、知るものと知られるものとが一致しているとはどのようなことなのか。まるでメリーゴーラウンドのようである。すでに回転しているが、そのなかに入場するきっかけがない。足をだそうとすればはじきだされてしまう。自己はもうすでにメリーゴーラウンドとして開業されてしまっている。気がついたときにはもう回っていて、その馬に乗る術がない。自己を分析しようとするために停止させたり麻酔をかけたりすることもできない。回転の停止は死であるが、死の観察は物体の操作でしかなく、決して生きた自己の観察にはならない。
どこかに論理的な齟齬があるに違いない。自己という現象は調べるのが不可能と言わざるを得ない。世間一般では、しかし自己をわかるものとしている。それは明らかに真実ではない。あえて言えばそこには関係しかない。「自己は関係としての現象である」と言うところまでは確かなようであるが、その先までは知ることのできないものと考えるのが最も妥当、かつ穏当である。ここで暫定的な結論を提示してみよう。世間的な自己とは、真の自己=〈わからない何か〉であるのにもかかわらず、この〈わからない何か〉に自己(自分)という名を与えて概念操作が可能なものとしている、というものである。
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