ビット文学

未知との遭遇についての論考。また理解と意味の限界について。AI(人工知能)は無限の解を産出するだろうが、これが我々にとっては未知なるものになる。我々は理解の及ばない解に対してどう振る舞えばいいのか。理解や意味の本質についての再考を強いられる。と同時に、近未来の課題として理解不可能なものがAIの急激な進歩によって産みだされれる現実とどう共存すべきかという問題がある。
これまでは少なくとも少数の理解者がいたが、このような理解者不在の状況がAIによってありふれた日常になる。理解不可能とはもちろん人類にとってという意味である。AIの提示する解は理解不可能であるけれども、何らかの解でありながら人類の知性を考慮していない正解でもある。価値判断とは人間が人間のためにするものであるが、先の場合においては判断すら不可能になってしまう。価値があるだろうと予想されるものの判断を下すことができない。
これらの問題を総括すると、未知なるものにどう対処すべきかという問題がこれまで以上に身近になり、また一般的になるだろうが、このとき我々の姿勢の在り方が問われている。AIの提示した解が理解不可能でありかつこれからも人間の能力では理解することが永久に不可能なことが明らかであるとする。だからと言って、価値がないことにはならないことに注意したい。わかりやすい例を挙げてみよう。ゴッホの作品である。当時は理解する人はいなかった(とする)。今日では理解者に恵まれている。(その証拠に天文学的な価格で売買されている)。これからの時代はこのような時間的経過を経ない。当時の(理解されない=評価0=価格0)ゴッホの作品が眼の前にすでにあって(すなわちAIの解)、それを理解することなしに(仮の正解=価値あるもの、と想定して)処理することを迫られるのだ。
理解不可能なものを理解不可能なまま使用したりしなかったりする。意味が了解されたのちに価値を付与されるのではない。意味の了解如何に関わらず想定される価値と見做されるのである。納得しないまま納得できないものを使わなければならない。ここで人間の了解を基準にするべきという主張とそうでない主張(人間の了解を棚に上げてしまう)とに分かれるものと予想される。確かにいったん理解不可能なものに有用性を認めてしまうならば、真偽や善悪等の判断ができないのであるから危険である。一方で発展性と進歩を重んじるならXをXとして人間の理解を待つことなしにXを現実的なものとして認めてしまうという方法も無視するわけにはいかない。個人的な見解を言うならば、(X)として括弧で括り理解しないまま利用するほうに賛成する。(X)を使っているうち、事後的に(X)が判明するかも知れないからである。
通常の過程では、(了解されたもの)→(了解されるもの)というふうになるが、今後は、(了解されたもの)→(X=了解されていないもの)→(了解に基づかない成果)という経路を辿る。未知なものをとりあえず既知と見做して前に進むのは、賢いやり方であると思う。証明されていないものを、当面のあいだ証明されたものとしてしまうことは、科学の掟に違反する行為であるが、いったん保留し跳躍する事で現実的な成果が期待できるのなら、それでも構わない。結果の利用価値が有効であればいいのだから。

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