彼シリーズ「パスカルの末裔たち」
「あれは何ですか?」「もちろん人間ですとも。とても信じられないかも知れませんがね」「信じることはできませんね。どれも同じではありませんか。それに老若男女ぜんぜん区別すらできません」
「国民全員が、お行儀よくおなじ制服を着るようになったからです。頭から爪先まですっぽりと潜水服のようにぴったりとした制服を着ているのです。もっとも制服というのには余りにシンプルすぎ、着用しているのかいないのか分からないほどなのですが。初めてこれをご覧になられる方々はみな一様に驚嘆します。その水着のような外観のみならず、制服の機能について驚かれます。実はこの制服は半導体なのです。なめらかなシリコンウエハーで覆われています。昔の半導体を想像されては困ります。ムーアの法則により半導体は、もはや半導体とは言えない優れた機能に加え有機物とも無機物とも区別することすらできない非人工物になってしまったからです。かつて彼らはスマートフォンを携帯していましたが、それが急速に進歩したのです。スマートグラスやスマートウォッチは、身体に密着した魚の鱗のような薄い制服と一体となり、その内部に組み込まれています。このように表現すると微小な機械が高性能となって制服に付属しているのかと思われるかも知れませんが全然ちがうのです。もう溶け込んでいるのですから」
「どのように違うのですか?」
「半導体は無機物でしたが、有機物となりもはや機械の部品とは言うことのできない水準にまで到達したのです。人工物の有機化は画期的でしたが、進化の成せる当然の成果と言ってもいいでしょう。この潜水服のような制服は国家が国民に支給したものです。デザインと個性はすべて消すように設計されているので、全員が全員まったく同じ格好をしていると言うわけです。人類は光合成で生命の維持を保つことに成功しました。もっとも初期の時代には発電をすることによって制服に内蔵された半導体に電気を送るシステムであったのは事実です。太陽の光線を制服で受け発電していたのですが、過剰なエネルギー消費の批判から樹木を手本にというスローガンのもと、光合成による生命維持の道を歩むことになったのです」
「ここまで没個性が進んでしまったのには些か困惑せざるを得ません。彼らの仕事と娯楽はどのようになってしまったのでしょう。彼らは動いているようですが、乗り物には乗っていませんし、動くよりは静止している時間のほうが多いように見受けられます」
「空気中の塵なども栄養にしますし、風にあのように靡くことで思考を揺らしているのです。メタバースにもすっかり飽きてしまった。禅僧が修行するように瞑想、殊に思索することに愉しみを見いだしています。自動車ですか?あれはとっくに無用な長物となりましたよ。だってメタバース空間では現実に移動する必要などありませんからね。それでも十分に満足できたのです。EV(電気自動車)は当初予想されていたほど普及しませんでした。と言っては語弊がありますが、つまり普及こそしたのですが、その期間は短かったということですね。メタバース空間に生きるようになってから、身体はできる限りエネルギーを消費しない方向に進化しました。その行きつく先が「木」なのでした」
「メタバース空間にはどのくらいの割合で生きていたのですか?あなたの説明によればメタバース空間も早々と卒業してしまったことになるのですからね」
「人間はどのような刺激にも飽きる生き物だということですよ。メタバース空間での滞在は束の間の流行の域をでませんでした。しかし、人間の欲求は変わらずに残存しているのですから、退化という名前の新しい進化を遂げたと言えるのではないでしょうか。まさかほんとうに「考える葦」に回帰するようになるとは、パスカル本人も予想することすらできなかったでしょうね。幸いにして国民がみな平等になり、瞑想と思い思いの思索に遊んでいる現在のありようは、なるべくしてなったと言えるのではないでしょうか。仕事や享楽もいったい誰のためのものか、という疑問に正直になった。誰のための競争か?誰のためのスピードなのか?そして自分で自分の首を絞めている至極当然な事実に真摯に向き合うようになった。世界規模でこのような反省が実現されたという意味では人類史上最大の革命と言えるでしょう」
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