謎なぞ

言葉は不思議である。読むのも書くのも不思議である。言葉を読んで理解するということがそもそも不思議である。言葉を読んでいて言葉それ自体に意識があるときは理解はしておらず、言葉を媒介にして想起されるものによって理解が可能になる。言葉に集中してしまうと言葉からの想起が難しくなる。理解する瞬間には言葉はもう忘れ去られていなくてはならない。例を挙げよう。ピアノを弾くとき両手を使うが、ふつう楽曲のほうに意識があるので鍵盤の手の方は忘れ去られている。言葉を読んで言葉から理解を得るとき、その言葉のイメージは自分の側にある。その言葉にあるイメージを持っているのだが、言葉の繋がりである文章を読むに従ってそれぞれのイメージが錯綜混乱しながら新しい概念を構成するようになる。言葉とその意味は一義的ではない(両義的)。論理的な文章とて、作者の文体から想起される独特の言語空間のようなものがあって、この空間内に踏み込まずしては理解できない。理解とはこのような言語空間の体験のように思われる。読む過程とは以下のようなものである。はじめ言葉自体に意識があるが、やがて言葉から遊離していき(その指示要素としての役割を忘れ)私の想起したイメージと言葉の群によって構成された言語空間との格闘が惹き起こされる。格闘とあえて言う理由は、私にはないもの、つまり非自己の自己への注入であるからである。他者の理解であるからである。
一方で書くことについてはどうか。書いているとき明確なイメージがあって書くのではない。少なくとも私の場合はそうだ。どのように書くのかというと書きながら言葉が次のイメージを掘り起こしながら書くのである。私なりの言語空間の場を創造しながら体験している。考えるだけとは異なり言語空間の中で思考している。書こうとする内容をあらかじめ決めておくことはしない。これこれを書こうとも思わない。まさに書きながら言葉を産みだしていく感じなのだ。言葉を使っているとはいえ言葉に意識はまったくない。これは不思議というよりほかない。言葉の駆使することを忘却しながら書かれた言葉はいったい本当に私のものなのか。言葉の運用を適切に行なっているという意識もないのにそれを私の言葉と言っていいものだろうか。眼の前に展開される言葉の方が私の理解よりも先んじているように感じる。理解してから書くのではなく書かれた言葉の跡を追うようにして理解が遅々としてやってくる。これは本当に私の理解なのだろうか。当の本人よりも理解のほうが先行しているならば、まったくおかしな話である。しかし明かなことがひとつだけある。それは私が私自身を知らないということだ。「汝自身を知れ」との古い格言の重さとその謎を痛烈に感じていることでもある。私は言葉の魔術性について何ひとつ知らないし、私自身についても同様にまったく知らない(だがおそらく言葉と大いに関係しているであろう存在である)。だから一層の熱意をもって知るように努めよう。

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