ヨーゼフ・K
フランツ・カフカについて。人生のある時期に集中的に読む作家たちがいる。文学に限るなら(あえて日本人を除外すると)まずゲーテ、シェイクスピアに10年。ドストエフスキー、A・ポー、プルーストに同じく10年くらいつき合っているが、今はほとんど読んでいない。面白いことに新鮮な10代のころに没頭したものは、パスカルとルソーとモンテーニュ。それからプラトンとセネカに加えてニーチェであり、これらが原点になっている。面白いという理由は、彼らは文学と思想の中間とみることができるからで、文学的かつ思想的なものが同時に好きなのだ。パスカル(パンセ)やモンテーニュ(エセー)またゲーテ(ファウスト)とシェイクスピアも名言格言箴言の宝庫だし、ラ・ロシュフーコー(フランスの読むエスプリッソ!?)、F・ベーコン(学問の進歩)にも時間をかけた記憶がある。ところで、時間のない現在もっとも長いつき合いになっているのがカフカである。20年以上は継続して読んでいる。文学作品に限定するとカフカを読む時間が大半を占めている(が、これは意図的ではなく本能的な選択!)。読んでいるからといって理解しているわけではなく、むしろわからないから読みつづけていると言ったほうがいい。カフカは、ほかの作家と違う。抽象的な言い方になってしまうが、普通の作家は収束しているのに対してカフカは発散している印象を受ける。カフカは理解可能性と理解不可能性のちょうど真ん中に位置している感じなのである。特殊な思考によって創造された知的凝固物のような作品だと感じる。またユダヤ的な色彩が多分にあって、公にされているタルムードのようなもの、解釈の連鎖に終わりがない(結論のない問題を永久に問いつづける)。ユダヤ的思考なるものに対する嗅覚は主にカフカによって培われた。
カフカを読むとき必ず頭が働くが(流せない!)、それは理解しようとする努力からそうなるにもかかわらず、肝心の理解には遠く及ばない。どのような読み方をしても理解可能と理解不可能を虚しく往復する羽目になる。ただ、このときの思考を駆動させるエネルギーはカフカの作品において他に知らない。思うに人類の思考のもっとも高度な形式がカフカ作品に内包されている。文学というジャンルに収まりきらない普遍的な思想がある。不思議なことに作品の理解は読み手の思考能力に大きく依拠しており、したがって作品の価値は、読み手がどのくらい思考を働かせるかによって常に変動する生き物みたいなものになる。それは理解されることを断乎として拒否するか、永久に納得させないものであるが、依然として読み手に高度な思考を要求することをやめない。あたかも「読むな」と言いながら「読め」と言っている。
カフカの作品の価値は、作品そのものにあるよりはむしろ、作品に対する読者の思考変容あるいは思考能力の限界を試すこと自体にあるのではないだろうか。芸術作品は鑑賞者との関係を基本とするが、カフカの場合は鑑賞者のほうに重点が置かれる、そのような働きが強い。官僚の文書のようだという見方もあるだろうが、それは違う。決して無味乾燥などではない。未来的な次元の世界へ眼をひらかせくれる堅牢たるものがしっかりある。しかし、その理解は完結することはない(風のなかにこたえを求めるようなもの!)。やっと理解したと思った瞬間に理解不可能へと自動的に導かれる。納得したいという読者にとってはそれがカフカのほんとうの真意ではないことがわかっていない。不可能性の証明を試みる文学と言ってもいいかもしれない。ほんらい読む行為によって獲得されるべきものがない。ないというよりは理解不可能性を獲得するような読み方を強いられる。これは獲得などではない。理解不可能なものに向かって最大限に有限である思考能力を働かせることにこそ意義がある。獲得しようと欲するならばまったく意味のない仕事になる。獲得の否定と得られるものを期待しないこと。それでも尚も求め続けるようとする、ある種の執拗さ。
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