吾輩はカラダである。

言葉が身体であることについて。一般的に言葉と身体はまったく別のものとされている。しかし、ここで新しい見方を提示してみよう。それは言葉と身体に境界はないというものである。境界はないどころか、言葉は手のように身体に密着している。言葉は身体に完全に溶け込んでいる。私たちは、言葉を聞いたり読んだりすることによって変化する。まず眼や耳から言葉を受け入れ、脳を経由して心と身体が影響を受ける。理解された言葉は、このとき一体どこに行ってしまったのだろうか。印刷された言葉は紙に残っているが、いったん理解してしまったのだから、その言葉の比重は印刷された紙にあるのではなく、私たちの身体の中にある。円に換金されたドルが、もうドルでは無くなってしまったように。耳から受信した言葉についても同じく、もう理解されたのだから、言葉の方からその意味は身体に移行して滞留しながら生きている。言葉は理解されるという人間的な呪文によって、言葉という姿を(理解者にとって)失い身体のなかに住み宿るのである。そして理解された意味は身体のなかに生きているのであるが、言葉として生きている訳ではない。
言葉は身体とは別のものであって、これを等価と見做すのは非常識に思える。どうしてそのように思われるのか。記述された言葉そのものに何の魂もなく、たんなる記号である。理解者の働きかけによって、はじめて言葉は記号から意味になり理解となって、最終的には身体の内側で生き物のように滞留することになる。滞留している言葉はもう以前のような言葉では無くなっており、身体と同化してしまっている。このとき身体は言葉を吸収したというよりも、言葉と一体となったのではないだろうか。言葉は、その理解を通じて身体中にかたちを変えて拡散されたのではないだろか。言葉は、もはや言葉ではなくなり身体言語ともいうべき身体的な運動に翻訳され、ついに身体そのものになったのではないか。ならば言葉と身体を等価値と見做しても何ら問題ないではないか。
もし言葉が身体でないとするならば、また身体が言葉でないとするならば、言葉の神秘と不思議が説明できない。フロイトの錯誤行為の分析や、メルロー=ポンティの文献を読むのなら、どしても「言葉=身体」という仮説を採用したくなる。少なくとも、言葉と身体を全然別のものであって、切り離されているものとして考えるのは間違っている。言葉を言葉として捉えるのは、私たちの精神であるが、それを捉えようとする働きをしているのは、私たちの身体である眼(耳)であり脳である。言葉というとき、先に理解されるべきという前提が既にあることから、記号とは言わずに言葉ということができる。つまり言葉と言った瞬間に、もうそこに想定された意味を予測してしまっている。言葉をみたり聞いたりして、これを機械的データであると思う人はいない。このような事態をひき起こしているのは私たちの身体にほかならない。よって身体と言葉との距離はゼロであるはずである。言語化された身体などなく、身体がもう即言語なのである。

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