ドッペルゲンガー

人間の本質には、二重性があることについての考察。ここで意識と無意識の二重性のことではないことに注意したい。アプリオリに、少なくとも二つのものがなければならない。二つあることが、前提されているのだ。例を挙げよう。意識があるというとき、意識される対象と、それをまた意識する主体とがある。「意識がある」という意味は「意識がある」と認める意識が、同時にあるということだ。単独の意識などなく、あるのは二重の意識である。ここに折り重なるように二重性が内包されているのがわかる。また観察するというとき、観察するものと観察されるものが同時になくてはならない。観察者は何かを観察するのであり、何かは観察者と共にある。さらに視点という言葉を使うとき、視点は視点そのものでは意味をなさず、もうひとつの視点によってみられるという二重の性質をもちながら意味を形成する。鳥瞰するとか俯瞰するなどと、もっともらしく言うのだが、鳥瞰を鳥瞰するもの、俯瞰を俯瞰するものが、鳥瞰や俯瞰より先になければならない。さらに理解するというとき、理解だけがあるのではない。理解されるものと、それを理解するものとが同時になくてはならない。理解が成立する条件に二つのものがある。ただ単に「理解」と言ったとしても「いったい誰がそれを理解するのか」がなけれは意味がない(理解が消滅してしまう)。「理解」は、これを理解するものの存在を想定している。
これらは二つが同時にあることが必要であり尚かつ、初めから前提されていることを示している。意識と無意識は、ふたつでないかと指摘されるかもしれない。無意識は意識によって無意識になるのである。見えないものを仮に見えるものとしているのは意識であるから。ここで話を前に進めると、無意識はふたつに分割できる。なぜなら二重性は無意識に眠っているからである。ここで疑問が生じる。なぜこの明かな二重性を無視しているように見えるのか。つまりひとつになった(独立した)かたちでは意味とか理解とか認識はあり得ないはずなのに、あたかも独立しているかのように言うことができるのはなぜなのか。
人間の本質に二重性があることは明らかである。あらゆるものは二つの関係性から湧出してくるものである。しかし、よく考えるとこの二つをひとつとして捉えることができるのではないか。二つの関係性はひとつにはならないのだろうか。仮にひとつとして考えてみた場合どうなるのだろうか。ひとつの現象は、あったとしてもこれに関与するものが不在なら、現象があったと確認することができないのだから、なかった現象になってしまうのではないだろうか。このように見るなら二重性とは、人間の原理のひとつということになりそうである。けれども人間の関与を無視するならば、二重性は必ずしも必須の要素とはならないだろう。

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