価値の評価
新しい着眼。それは価値の創造について一般的な誤解があるのではないかという推測。新規の価値の創造に躍起になる必要はないのではないか。理由はもうすでに価値はありふれていて、ただ発見されずに放置されているものと思うからだ。どうして放置されているのかといえば、独創的なものは価値の評価が難しいからである。なぜ難しいのかというと、伝統的な考えや常識からの視線で見るからである。すなわち世間には埋もれている価値が山のようにあるのにもかかわらず、適切な評価が賦与されぬままになっているのが現実ではないか。新しい価値の創造をしようと試みて華々しく、かつ派手に気負うことをせずとも、もうすでに一部の天才的な独創人によって価値は存在する。問題はこれらの埋もれた価値を価値あるものと適切に評価する見極めが難しいのである。価値の適切な評価を独力でできる人は稀である。いまだに評価されていないものに価値を見出すのは至難の技である。平均的な水準よりも卓越している者だけが目利きになれる。
目利きになろうとするとき、謬見によって曇らされることに注意すべきである。F•ベーコンは、これをイドラと呼んだ。あまりに独創的なものは伝統的な考えと真っ向から対立するため適切に評価することは期待できない。もし評価されるとするならば、どのような過程を経るのか。人々は理解できないことを間接的に理解している。つまり権威を信じることによって、理解できないことを理解するのである。普通の人が独自に価値評価するのは、ほとんど不可能であるはずだ。必ず他者の考えを参照しているからである。権威に依存せずまったく自分の頭で考え評価するのは普通できない。ところで目利きになることと、新たな価値の創造することは同じくらい困難なことである。ただ新たな創造には天才的な能力が必須であるのに対し、目利きになるためにそれほど天賦の才能を必要としないのではないかと思う。ゼロから価値を創造することと、一方でいまだ価値になっていない価値に適切な評価を賦与することが似たような仕事になるのであれば、後者を目標とした方が賢明であるように思われる。
賢明であることと目利きであることには勿論関連性があるだろう。私は賢明でも目利きでもないが、その方面にとても興味を持っているし、できればそうなりたいと希望している。世間一般を眺めていると、価値に対する評価の変動に驚かされる。何でもないものが異常に人気になり過大に評価される一方で、重要な価値が不当に過小評価されている(たとえば書物!)。さらに評価の対象にすらならない将来の価値が塵のように捨てられて顧みられていない現状をみる。J•S•ミルは「自由論」のなかで次のように強調している。独創性ほど独創性のない者にその有用性が理解されないものはない、と。真に独創的なものは、初めてそれをみるときには、独創的なものなどという煌びやかな風貌をしていないに違いない。かえって醜悪であり不機嫌になるような嫌悪される対象として映るものだ。そのようなものを評価しようものなら、世間の嘲笑の的にもなりかねない。周囲が全部反対したとしても、自分の価値評価を信じるのは並大抵のことでない。少なくとも揺るがぬ一貫性と勇気がなければならない。
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