証明「未知なる対象は存在しない」

対象とは何であろうか。主体からみた対象であるはずだ。主体が対象をみるとはどうゆうことであるか。対象というとき必ずこれをみている主体があるが、ここで主体には、しばし退場してもらおう。対象になるのは対象になれるものに限られる。対象として固定できるものが対象になり得る。なにを言おうとしているのか。対象に向かって的を射っているのだ。対象はあたかも塊としてまとまっていることがあらかじめ了解されている。捉えどころのないような、するすると逃げるようなものや、分散しているもの、雲と知らないときの雲、確率的な存在ということがまだ知られていないときの確率的に存在するもの。つまり存在の仕方が人間の思考からあまりにかけ離れているものは対象にすらなることができない。したがって、対象とは対象といった時点で既に限定されており、ある形式がもう与えられてしまっている。
ある対象を観察するということは、観察する対象をある形式において観察するのであって、決して未知なる対象を観察していることにはならない。未知なる対象などというものはないらしいことに注意すべきである。わからない対象があるとしたとしても、どこがわからないのかを知っているからこそ、わからない対象として研究の対象になるのだ。手がかりのまったくないものは対象にはならない。対象にならなければ、主体は方向性を失うであろう。「あれ」がわからないというときには、「あれ」は対象としてわからないと言っているのであり、対象に向かって方向性を有しながらも、なおわからないと言っているのである。しかし、ほんとうにわからないとは方向性すらない状態のことである。まとめると、わからないというときに二種類ある。方向性のある場合の「わからない」と、方向性のない場合の「わからない」とである。
以上を踏まえるならば、対象といったときにはもう、主体は対象のほうに向きを変えているのであり、それゆえ対象はその方向に沿った形でのみその姿を露呈させることになるだろう。対象の真実が判明するまえに、対象の現れかたが規定されているというのはおかしなことだ。ある方向性の先に、いまだ判明されずにいる対象を設定するというのはどういうことであるか。すなわち対象は探しだされる方法とともに暴露されることになるのではないか。それでは、主体とこの方法(対象への方向性)との関係はどのようになっているのだろうか。主体のほうに方法が接近してあるものと常識的に考えられる。では未知なる対象とは何であるのか。未知なる対象とは、対象にそもそも方向性が付き纏っていることを考慮するならば、対象とは呼ぶことが不可能なものである。未知なる対象は、言葉の上において表現できるけれども現実には存在しないものというより仕方がない。未知なる対象は幻想に過ぎない。

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