パラドクシカル言霊

まず、M・メルロー=ポンティ「知覚の現象学」の抜粋から。そのあと思いついた若干の連想。


「重要な言葉、すぐれた書物は、その意味を否応なくわれわれにおしつけてくるものだ。したがって、それらのものが担っている意味には、或る独特なものがある。一方、語る主体の方はといえば、その表現の行為自体によって、これまたまえに自分が考えていたことをのり越えてしまうことが可能となり、自分自身の言葉のなかに、自分がその言葉で意味させたいと思っていた以上のものを見いだすことがおこるに相異ない。でなかったら、どうして思惟が、たとえ孤独な思惟であってすらも、わざわざ苦労して表現を探しもとめるのか、わからなくなってしまうだろう。してみれば、言葉とはまことにパラドクシカルな作業であって、そこではわれわれは、すでに意味の決まっている語やすでに誰でも自由にこなし得るものとなっている意味作用をもちいて、ひとつの意図を実現しようとつとめはするものの、その意図たるや、自分の表現してくれる語の意味をのり越え、改変し、けっきょくはそれを自分自身で定着するのを原則としているのである。…」

読むという行為は、実に不思議であると言わざるを得ない。なぜなら、そこに書かれていることは、はじめ自分のものではなく他者ともいうべき、これから理解されるべき未知なのだから。書く行為のほうも不思議である。書こうとするとき、その内容は自分の理解を超えるものになる。書いている途中で自分の考えていることが事後的に判明することは頻繁に起こる事実である。したがって読むこと及び書くことはある種、超越した営みであると言える。読んでいる時に必ずしも以前の記憶を想起しているわけではない。読みながら考えるということで、これまで自分にはなかった理解が獲得できる。あらかじめ知っていることを読むことで再び見いだすのではなく、未知であったことが既知のものとして新規に変換される。ただ書かれている個々の言葉は辞書にある意味なのであって、新しいものなどではない。新しい概念の獲得には、既知なものと未知なものの中間に思考作用を介入させる必要がある。思考作用によって既存の概念が破壊されるときに、新しい未知なる概念の獲得が可能になる。思考内容に於いては、死と再生が交互に行われている。俗に死なないと治らないと言われるが、思考を始めるとは、これまで蓄積された知識をいったん破棄することであり、暫定的に死亡することである。だから読むことによる新しい理解は、思考の仮死状態を通過することによりなされるだろう。このようにみると、そもそも読むことと書くことにそれほどの違いはないような気がしてくる。なぜなら読むことは頭の中で書いているのだし、書くことは書かれる言葉を読みながらなされているからである。

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