宇宙遊泳

自分自身がまったく分からない。これが唯一の真理である。知ろうとすればするほど分からなくなる。もし、かりに自分自身についての知識と呼ぶべきものがあるとしてみても、その知識はいつまでもゼロである。自分自身を知ろうとする欲望があるからこそ知ろうするのに、知ろうとすればするほどその知識(自分という人間の本質)は逃げ去っていくように感じられる。では、反対に知ろうと努めないとするならば、分かるのであろうか。これは俄に信じがたいことである。知ろうとしないものよりも知ろうとしているもののほうが理解に近づけるのが常識的であるから。それとも知ろうとしなくても知られるものこそ自分だ、というのが常識なのか。どのようにして人は自分自身の知識を獲得しているのだろうか。自分を知るために自分の外に環境を配置して、その反応をふたたび自分自身に反射させることによって、自分を認識しているのではないかと想像する。白を認めるためには、そのまわりに白以外の色彩を配置することで白を白とはじめて認識できるようなものだ(白だけの世界では白を認識することは不可能!)。つまり比較対象を自分の外側にある環境におくことによって、すなわち自分を浮きださせるようにして自分の何たるかを見いだす。このように自然に浮きあがってくるあるものに自分という名前を与えている。
このようなやり方で浮きでた自分というものは、自分自身であるというよりも自分の外側から決定された仮想の自分というべきではないのか。自分が直接に自分を知ろうとしたものではないのだから(受動的!)。そうは言っても直接的に自分が自分と対峙することがほんとうに可能なのかどうかも疑問である。つまりどちらにしたところで自分を知ることは不可能であるという結果になるだろう。だがこの結果は明らかに現実的ではない。人はある程度の自己認識を有しているのが普通だからだ。しかし、この自己認識といったものは幻想であるはずだという結論が真実にもっとも近い。なぜなら、知ろうと努力すればするほど自分が分からなくなるという事実は、そのもっとも先端にまったく分からない自分がいるだろうと想定可能なことを意味するからである。自分が自分と思っている実態は虚構であり、つくられたものである。「あなた」が「あなた」であると思っているものは、「あなた」ではないということだ。真実は、自分を知ろうとする方向(欲動)があるだけであって、その方向(欲動)の先にはいつまで経っても到達しないのだ(永久に知られることはない)。

ここで大きな矛盾にぶつかる。「自分自身がまったく分からない」という判断をしたものは誰なのか。自分であるに相違ない。ここで自分とは「まったく分からないもの」であったはずだ。ならば、「まったく分からないもの」が「まったく分からないもの」を「まったく分からないもの」として判断したことになってしまう。=(自分が自分をこのような自分として判断する)。もういちど言おう。判断したものは誰なのか。「まったく分からない」ものが「まったく分からない」とどうして判断できるのだろうか。これでは判断だけが無知(まったく分からないもの)の両側から挟まれてしまっているだけではないか。そしてこれらの分析を「まったく分からない」ものが行っているとでもいうのか。自分というものが「まったく分からないもの」だとしても、ここに書かれている記述は決して「まったく分からないもの」などではない。思考が追いつくならば了解できることである。では、思考によって了解できるとするならば、思考とは「まったく分からないもの」ではないことになりはしないか。不思議だ!思考は私の思考ではないのか。少なくとも思考は「まったく分からないもの」を理解している。

順序になんらかの問題がありそうである。

未確認のまま。

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