動くもの。あるいは未知の知識
理解とは何か?またどうしてこのような問いを発するのかについて興味がある。理解という言葉に堅苦しい印象をもたれるならば、納得するとか腑に落ちると言い換えてもいい。理解するとはどのようなことなのかという問いは、あたりまえ過ぎて問うに値しないとか、問うことで何か意味があるのかと言われるかもしれない。しかし当然すぎるから問うに値しないという考えはあまり当てにならない。地動説以前は天動説が常識だったように常識には、かつて常識であったものと、これから常識になるであろう常識とがある。その時代の常識はあまりに私たちに接近し過ぎていて却って(あたかも皮膚のように)特別な事情のない限り意識的にならないようになっている。心臓を思い浮かべるとき大抵は心臓になにか異変があるときだ。このように当然とみなされているものはまさしく当然だからという根拠に乏しい理由によって無視される。あたりまえなことは常に覆い隠されているから、疑問の対象にさえならない。意識に浮上したがらないのが常識のもっとも典型的な性質だろうと思う。
いまだって書きながらなぜ言語は直線的にしか記述することしかできずに三行や五行一遍に書けないのはどうしてだろうなどと考える。これは手がそのようにできているからとともに、言語そのものの性質による。読むときでさえ三行五行を一度に写真のように読めない(QRコードをスキャンするみたいには理解できない)。絵画を鑑賞するように言語は鑑賞できないのは、意味をそこから掴み取ろうとするからだが、ならば絵画には意味がないのかという話になる。実際は眼によって言語を読み理解しようとするし、同じく眼によって絵画の意味を汲み取ろうとするのだけれども、眼が理解するのではない。眼を通じて脳が理解する。
ところで話を理解のほうに戻したい。どうして理解とは何であるかと問うのか。それより前に理解についてのある思いつきがあった。思いついてしまえば至極当然の事実である。つまり理解全般を「理解するもの」と「理解されるもの」とに分類すると、「理解されるもの」は不動であるが故に「理解するもの」が動かざるを得ないというということである。例えば古典作品を読む場合に、これから理解されようとしている書物自体はまったく動くことはできない。書物は活字の姿を借りて牢獄に幽閉されるかのように完全に凝固している。活字が理解されていないとき、依然として幽閉状態にあり凝固されたままであり、理解する行為によってはじめて解凍され納得される。ここでは固形物体が理解によって液体になったように表現したが、重要なのは書物そのものは何も変わっていないことである。変化したのはまさしく理解した側に位置するものであるはずだ。
この思いつきは、一般的には受けつけ難いと言われるのは十分承知している。生きている人間には応用できないのではないかと思われる。動きつつ生きているに違いないからである。人は印刷された言葉ではない。したがって人が人を理解するとは動くものが動くものを理解することであって、どちらか一方が不動などとは考えらない。それでも尚と言いたのだが、人を理解するときにおいても理解する前と後があるのであるから、私が動かずして相手の理解も覚束ないと結論づけたい。理解するとはすなわち意識の変容なしに不可能なのではないか。反対に理解しないとは、昔と現在とを比較して、なんら変化もしていないという結論になりそうである。理解することに変化が必須となれば、理解しないとは変化を拒否する態度となるであろう。ここでさらに言うと、世間では世界はめまぐるしく変化しているとの認識が共通の理解であるようだ。新しい常識とは未知の知識のことではないのか。その微かな兆候をカナリアの感受性を頼りに探しあてる。
ロコ・ソラーレの大ファンより
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