発見についての一般理論

発見について私たちは誤った観念を抱いていないだろうか。発見されるというとき、発見されるものが単独にひょいと頭に浮かぶのが一般に流布している発見のイメージであるようだ。この共通認識は間違っているのではないか。発見される対象は決して閃きのみでなされるものではない。ではどのように発見されるのかというならば、発見されるものの周囲にあるものが明らかになることによって、あたかも浮き上がるように、もしくは押しだされるようにして発見されるのだと言いたい。周囲とは環境のことであって、発見される対象がそこで満たされているような世界のことである。発見されるもの自体はこの世界の中にもともと埋没しているのだが、未だ了解や解釈がなされていない故に発見されずにいるのである。
具体的な発見のイメージはこうである。大海原に珍しい深海魚がいるとしよう。潜水艇でこの魚を探そうとするのが普通の考え方である。このように深海魚のほうに向かっていき発見されるのではない。海水が全部なくなって浮きでるようにこの珍しい深海魚が当然の如く発見される。深海魚という対象のほうに向かって発見がなされるのではなく、深海魚を取り巻いている海水がなくなるという現象によって浮き上がるように発見がなされる。ここで強調したいのは、発見されるべきもののほうに向かうという手順を否定していることである。さらにもっと分かりやすい例を提示したい。元素の周期表があるとして、まだ知られていない元素が発見されていないままになっている。このばあい新しい元素は周期表から浮きでるように、全体的な把握によって予知され発見されるはずだ。未知の元素が周期表という周囲の環境(秩序)から発見される例である。
どうして発見の過程がこのような経路を辿るのかといえば発見されるものは、理解と切り離して考えられないからである。逆を言うなら、発見されたとしても理解なしには正式に発見とは呼べない。理解がどのようになされるのか考えてみると、構造化もしくは秩序化によってである。発見されるものは最終的にこのような了解がなされるために、構造化や秩序化されなくてはならない。新しい概念が発見されるとしても、やはり既知のすでにある概念との連絡が不可欠なのであって、唐突に人間の認識作用から切断されたものは発見にはなり得ない。このような発見の典型的な例として宇宙人を想起する。宇宙人がいるとかいないとか問うことがそもそも間違っている。なぜなら問われている宇宙人は問うている人間の発想の延長線上にあるのだから。この延長線上にないものこそ宇宙人と呼ばれるべき存在であるが、人間の了解範囲の外側にあるものは、ほんらい存在することができないはずだ。
ここまで同じことを繰り返しているだけなのだが、図解してまたも同じことを繰り返そう。
発見される対象を記号で「X」とする。
発見の現象をわかりやすくするために次のように書く。

(ーーXーーーーー…)


これはXが単独の対象となっていることを示している。このようにXは発見されない。次にXの周りの環境を記述してみる。

(a b X c d e f g……)


X=未知、であるがその周囲にある(a b c…)は既知の概念である。Xが発見されるためには、(a b c…)が体系化されている必要がある。これらの体系が明らかにされることによって、Xが必然的に導きだされる。またも強調したいのは、Xのほうに向かうのではなくて、(a  b  c…)の構造関係を明確にすることによって必然的にXが発見されるだろうとの予測である。Xとはまさに招き入れるものなのだ。

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