美ー賢さの親戚

賢さと美は似ている。絶妙な均衡を保つところに美があるように、賢さも全体の調和を維持しているように見えるから。危うく均衡を逸しようとするところ、かろうじて調和を保つとき美が生じる。賢さについても同じで、善良さや正義感と正反対の悪魔性や大いなる矛盾とがあって、それらが上手い具合に釣り合っているのでないかと想像する。両者が互いに打ち消しあっているともいえるかも知れない。どちらも隠されており外見が総合的に賢さとして映るのであろう。つまり一言で言い表せないのが賢さの本質ではないか。もちろんジョーカーみたいだから謎だらけに見えるだろう。人間の本質を知らない者は彼の一面しか理解しない。賢き者は少なくともデモーニッシュな側面を内面に宿している。そして賢者の前の扉はいつも解放されている。いいものをいいと単純に決めつけないし、悪いものも悪いものもといって切り捨てない。物事の複雑であることを承知しているから。不寛容とは賢さの反対で心の眼が閉じていることを意味する。未知のものも既知のものとして素直に扱う。既知のものがほんとうにそうなのか疑う。既知を既知として決めつけるのも扉が閉じている例である。知識を獲得して傲慢になるどころか返って未知の問題が増えると感じる。賢さと狡猾を同列に考えるのは恐らく間違いである。狡猾という噂が広まればただのずる賢い悪者という評判を受ける。これがそもそも先を読んでいないという観点からして賢くない。美についても完璧に純粋では、つまり綺麗なだけでは真の美しさは見出されず、どこか悪魔的な謎が複雑に絡み合いながら、それが内心に隠蔽されているとき言い知れぬ魅力となってしばしば周囲を虜にする。つくられた美や一面的な頭の良さに興味はない。本物は何重にも重なり合って存在しているものだから。ダ.ビンチのモナリザ!

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