情報の掃除
いつでも翻弄される。さまざまな人がさまざまなことを言う。彼らは重要なことと称して主張するのだが、それが世の中に溢れかえっている。いったい何を信用したらいいのか。誰を信用したらいいのか。情報がありすぎて困惑する。大切だし重要なのだがそれらの量が多すぎる。一貫した信念を持たずしては選択し判断できない。判断とは方向を決定することである。方向が決まると取捨選択が可能になる。場当たり的にあっちに行ったりこっちに行ったりしては、ただ迷っているだけであって前に進まない。あるいは流行に流されるだけで目的に到達することはない。もちろんそのような人生もある。でも変わりたい。皆と同じでいると没落する気がする。世界の動きは凄まじい。だから切り捨てることにした。その時々のイベントや行事祭典その他みんなが機械的に注目することを全部捨てる。知らなくても構わない。いわば情報の掃除である。常識的に振る舞うのは確かに大切だ。だけどもみんなが同じことに注目するのは裏を返せば何もやっていないに等しい。欲するものがあるのに常識的な時間を共有するのなら欲するものは手に入らない。時間の使い方が平均なんだから当たり前。同じものをみて同じ感情を抱く。同じことを同じように会話の俎上に載せる。ここで差がつくことはない。他人と違う行動や考えをしているからこそ差が生じる。常識を常識的に扱うことに意味を見出さない。ニュースになる人は恐らく人と異なる習慣を身につけている。ニュースとは頂点だけをみせるものだ。そこまでの長い過程は省かれる。これを一般の人々が同じように知りまた注目したり関心を示したりする。常識的ではない日常を送っていた人が突如あらわれて国民の常識になるのは皮肉に思える。
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