空中犬
カフカの「いかに私の生活は変化したことか」という作品について。空中犬という種の犬が登場する。「…全身の大きさが私の頭とさほど違わず、年をとっても大きくはならず、もちろん虚弱、見たところ作りものめいた、未熟児風の、超念入りに毛の手入れをされた代物で、まともなジャンプひとつできないとのこと。この犬が、話では、空中高くを漂っており、でも漂いながら仕事をしているとは見えず、ゆったりとくつろいでいる、というのだ。…」小さくて虚弱であって未熟児風と表現されている。空中を漂いながら何をしているのか?「…言うところの思索にふけっている。どんなにがんばってみても、彼らは思索から己を振りほどくことができないのだ。…」貴族的な存在のイメージはさらにこう叙述される。「この空中犬たちは空中を漂っているだけなのか?彼らの職業にどのような意味があるのか?…なぜ、彼らはあの上空を漂い、犬の誇りである脚を退化させているのか?なぜ、彼らは食べ物を与えてくれる大地から離され、種まきもしないで、そのくせ取り入れはするのか?なぜ、彼らは、語られるところによればなんと犬族の負担で、特別上等な食べ物を与えられるのか?…」主人公の犬は空中犬についてさまざまな思考を巡らす。そして問うことに執拗になる。「…若いあいだは誰だって、とかく何でも問うてみたいものなのだが、その沢山の問いのなかから、私はどうやって正当な問いを見つけ出せばいいというのか。どの問いも同じように聞こえる。問いの意図が大切なのだが、それは隠されている。問うている者自身にさえ隠されていることも、しばしばである。そもそも、問うということは犬族の特性であって、皆が互いに入り乱れて問いを発するのだ。それはまるで、そうすることによって正当な問いの手の痕跡を消してしまおうとするかのようである。だめなのだ、問う者たち、つまり若い者たちのなかに、私が自分の種族仲間を見つけ出すことはないのだ。そして黙っている者たち、つまり年をとった者たちー私もいまはそのひとりだがーにしたって、やはり同じことである。だが、問いがいったい何の役に立つというのか。実際、私は問うてみるという試みに失敗したのだ。…」。作品のほんの一部の引用であるが読む方も混乱しながら焦点の定まらない迷宮に入り込む羽目になる。
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