産婆術
ジャック・デリダ「散種」の「プラトンのパルマケイアー」より、抜粋からはじめよう。
「…限界の難問が立ちふさがる。つまり『ティマイオス』のときと同じように、同と他、一と多、有限と無限といったものの構成という難問にぶつかるのだ。…太古の人々はわれわれよりも優れていて、神々のもっとも近くで生きていたが、彼らはわれわれに次のような言い伝えを授けた。すなわち、存在すると言いうるおよそすべてのものは一と多からできているのであって、それ自身のうちに限界と無限とを、それが結びついた形で含んでいる、と…。門答法=弁証法はこうした仲介物を尊重する術である。ソクラテスはこの問答法=弁証法を、性急に無限に移ろうとする論争術に対立させる」。
ここからは、テキストから離れた勝手な思考遊戯になる。
一枚の紙にこう書く。左にα、右にβ。
α=同=一=有限
β=他=多=無限
一般的な知的活動のイメージは
α→β
となり、αからβのほうに向かおうとするだろう。
そして、αとβのあいだにある記号(→)に働きかけるものが、問答法=弁証法(産婆術)となる。
α領域は、可能範囲(了解可能)であって、世界はここにあるものと普通考えられる。一方、β領域は完全な未知世界(了解不可能であるどころか存在さえ知られないもの)である。α領域とβ領域には大きな溝がある。α領域からの必死の問いかけの結果、β領域が発現されることがある。そのときには、これまでβ領域にあったものが、α領域のものとして受け入れられる。例えば、無意識が明らかな存在として意識されるようになった場合である。無意識は、もともとβ領域にあったものだが、(つまり存在=意識しなかったものだが)、フロイトを代表とした精神分析の創始によって、可能なものになった。可能なものになったとは、存在が明らかになったという意味である。だから無意識はいまでは、α領域にあるものと言える。β領域やβは可能性ですらないし、想定されるものでさえないものである。可能性ということができるのは、その存在が想定される場合に限る。ところで何が言いたかったというと、αとβのあいだにある記号(→)についてであった。記号(→)の仲介物としての産婆術である。αとβには越えられない亀裂が生じているのだが、この亀裂を修復すると期待されるのが、問答法=弁証法(産婆術)である。具体的な対象のない自己内対話も産婆術の部類に属する。二重のものあるいは、二つのものがあって、そのニ種の性質が異質であればあるほど、産婆術のエネルギーが大きくなるだろう。しかし冒頭の引用にはこうあった。「…存在すると言いうるおよそすべてのものは一と多からできているのであって、それ自身のうちに限界と無限とを、それが結びついた形で含んでいる…」。つまり、α=βなのである。ただ私は、現実的なモデルとして考えるなら、α→βのほうが分かりやすいと思った。
0コメント