動的または静止

「動くもの」と「動かないもの」がある。もし完璧にそのもの自身充実している場合に、それは動くだろうか。それ自身に満足しているのに動く理由などあるのだろうか。充実とか満足というと人間的な意味合いを帯びるが、あらゆるものに広く適応できないだろうか。完璧な静止というものを考えたい。次に一般原則を導きたい。ある思考実験として、完璧な充実と満足にあるものは、現状を変える必要性がないから「動かない」と予測される。そして「動かない」ものは、それ自身の世界内に留まり、かつ外界から注意されることもない。存在を隠蔽しているのだ。謂わば内側に向かって存在するのであり、閉じられている。「動かない」ものは、その平和と幸福によって、すなわち十全たる充溢によって、他へ移動する必要性がない。完璧な静止とは何か。それはゼロである。存在しても意識があっても、静止しているならばゼロである。ここから求めたい一般原則を導出できる。あらゆる認識の前提に「動的であること」が要請される。というのがこれである。私たちは動的なものを動的な方法でみている。決して静的なものをみることはできない。心的活動は常に動的なものだ。純粋に静止しているものについての認識はまったく不可能であるはず。静止しているからといって、存在してないとは言えないのは明らかなので、私たちの世界は、動的なものにのみ制限されて静的なものに注意を払っていない。誤解が生じると思われるが、止まっているものに注意できるのは、意識が動的な方向性をもつからなのだ。ここでまた混乱する。完璧な静止とは、私たちの意識すら静止していることになる。完璧な静止を想像しているのは動的な意識である。静止しているものは目的も方向もない。その存在を告げ知らせる印がない。擬態する昆虫がいる。動かなければ知る由もない。擬態する昆虫と知ったのは、それが動いたからである。同じ箱が二個あるとする。同じ箱だから外見では区別ができない。色も重さも同じだ。一方の箱の中には地金が入っている。もう一方は、水でいっぱいになっている。この二つの箱は同じだろうか?



0コメント

  • 1000 / 1000