他者と人間的世界

『知覚の現象学』M・メルロー=ポンティ


「私が諸感覚機能をもち、視野や聴覚野や触覚野をもつかぎり、すでに私は、同じように精神物理的主観とみなされる他人と交渉をもっているのである。私のまなざしが活動しつつある一個の身体に向けられるやいなや、ただちにその身体をとりまく諸対象は、意味の新しい層を身につける。つまり、それらの対象は、もはや単に私自身があらしめているだけのものであるにとどまらず、この行動があらしめんとしているところのものでもあるのだ。知覚される身体のまわりには渦が巻いていて、私の世界もそこに引きこまれ、まるで吸いこまれるかのようなのである。そのかぎりにおいても、世界はもはや単に私の世界ではないし、もはや私だけに現前しているのでもなく、それはXに現前しているのであり、その世界のうちに姿をあらわしはじめている他の行為に現前しているのである。すでに他の身体からして、もはや単なる世界の一断片ではなく、或る加工の場であり、いわば或る世界<観>の場なのである。そこにおいて、それまで私のものであった事物の或る処理がはじめられる。誰かが私の馴染みの対象を自分のために使うのである。しかし、それは誰なのだろうか。私に言わせれば、それは他人であり、第二の私自身なのだ。そして、私がそれを知っているのは、何よりもまず、この生きた身体が私の身体と同じ構造をもっているからである。

私は私の身体を或る種の行為の能力として、また或る世界に関する能力として体験するのであり、私が私自身あたえられるのは、世界に向かう或る手がかりとしてでしかないのだ。ところが、他者の身体を知覚するのも、まさしく私の身体なのであり、私の身体は他者の身体のうちに己れ自身の意図の奇跡的な延長のようなもの、つまり世界を扱う馴染みの仕方を見いだすのである。以降、ちょうど私の身体の諸部分が相寄って一つの系をなしているように、他者の身体と私の身体もただ一つの全体をなし、ただ一つの現象の表裏となる。そして、私の身体がその時どきのその痕跡でしかない無記名の実存が、以降同時にこれら二つの身体に住みつくことになるのである」


以上、メルロー=ポンティ「知覚の現象学」(みすず書房)。「他者と人間的世界」から抜粋。


メルロー=ポンティは、同じ章で、身体が客観的世界から身を退き、純粋主観と対象とのあいだに第三の存在様式をかたちづくると同時に主観の方もその純粋性と透明性を失う、といい、さらに。他者の明証性が可能なのは私が私自身にとって透明性ではなく、私の主観性が己れの身体を引きずっているからだ、と述べる。はじめから客観世界や他者を想定することはできない。ふつう我々がやりがちなあらかじめ想定されているこれらのものは本来ないはずなのに、根拠なくはじめの前提としてしまっている。根拠をどこにおき、どこからはじめればいいのか。メルロー=ポンティは、「私がもつ世界は未完結な個体であり、私はそれをこの世界に関する能力である私の身体をとおしてもつのである。私が対象の状態を知るのは私の身体の状況を介してであり、また逆に私の身体の状態を知るのは対象の状態を介してなのだ」「私の主観性と私の他者への超越とを同時に基礎づけている中心的現象は、私が私自身にあたえられているという、まさにその点にある」という。対象一般について再定義する必要に迫られそうだ。もう一度根拠の場所に遡ろう。「知覚される身体のまわりには渦が巻いていて、私の世界もそこの引きこまれ、まるで吸いこまれるような」Xに現前している、或る加工の場である世界〈観〉の場によって、私のものであった事物の処理がはじめられると言っていた。私のものというが、Xに現前しているとは、もはやその場は私の世界ではない。この場において、対象なり客観世界なりの概念が与えられる。場はその世界のうちに姿を現しはじめている他の行為に現前している。私の身体の場にもかかわらず、この馴染みの場は他人に使われ住みつかれるが、この他人とは第二の私自身でもある。世界に向かう手がかりはこの場を通じてしかない。この見方は表だけであって裏もある。裏というのは、まったく同様の状況が生きている他者の身体の側からもいえるからだ。最後に再度引用を繰り返そう。「私は私の身体を或る種の行為の能力として、また或る世界に関する能力として体験するのであり、私自身にあたえられるのは、世界に向かう或る手がかりとしてでしかないのだ」。
これを書いている私もよく分からないまま手探りの状況なので、読み飛ばして下さい。つまり読んで貰うというよりは、書きながら実験している要素のほうが大きいので。理解していることを書いて下さいと主張される方にはこう言いたい。私は私の中で動きつつあるもの(LIVE中継!)に興味があるのであって、もう理解されてしまった古い録画されたもの(現在の私にとって)アイデアを決まったように決まった風に書くことに何のメリットもないと考えている。あなたは分かっていても私には分からない場合、私の試行錯誤のほうを優先して読み手をうんざりさせることも厭わないこととする。

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