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私(あるいは私たち)は、未来を現在に包摂しながら生きている。さらに率直にいえば(現在に生きつつ)未来にも生きている。俄には信じがたい発想である。未来はその字の如く未だ来ていないもので、現在の先にあるものだと通常はそのように思われる。では、過去が現在まで続いているというのなら少しは信じてくれるかも知れない。だが未来を生きているというなら、それは違うとなる。まだ到来しない将来を現在の私が生きるなど不可能だと。本当にそうだろうか。期待とか希望とか想定などの言葉は、現在に属した概念であろうか。期待されるものは、現在によって発信されるものだが、それは未来に向かって投げかけられた場から逆流するようにして、現在の私に帰還しているのではないか。時間という概念がこれらの問題を複雑にしている。特に客観的時間というものが意識の自由な行き来についての発想を頭から否定する。期待するとは、現在に期待するのではない。希望するとは、現在に希望するのではない。想定にしても現在の話ではない。いずれも実存的なものである。意識が未来の方向に向かっている場とは、まさしく未来のことだ。これらの未来のほうに向かって投げかけられた言葉は、本質的に未来にあるのであるのだが、時間的にも未来にあるとは言うことは容易ではない。私(私たち)は意識的には過去にも未来にも生きており、それらが両側から現在という点に収斂されている存在とはいえないだろうか。過去は過ぎ去ったものとして現在のなかに堆積されているのであり、期待される場としての未来も、まさに未来から過去の方に逆戻りするようにして現在に帰還する。過去も未来も現在のなかに背負われて生きている。現在の私は過去にも未来にも生きている。なぜこのようなことを強調するのか言うと、過去が現在に繋がっているのは了承するものの、未来が現在と繋がっていることについては納得されないからである。未来は遠くにあるものであり、これから来るものだが、現在とは無関係なもので知らないものだ、というからだ。しかし、これは(未来が現在を規定していること)私から言わせれば空想ではなく現実である。仮説として、過去と未来は平等の地位にあると言いたいくらいである。過去は既に知られたものとして現在にあり、未来は期待されたものとして現在の私に(現実的な!)影響を与える。未来への思いは現在から発信されているとしても、意識は未来の側にあるのであり、未来のほうから現在に返球され戻ってくる。だから未来が現在に作用を及ぼし、また現在を形成しているものということができる。不思議なことに未来こそが(その常識的な概念とは裏腹に)現実の現在を規定しているのである。理解を困難にしているとしたら、それは恐らく意識の古い時間性に囚われて過ぎているからだと思われる。意識と時間の関係は、まだ解明されていないのだから、なにも意識を時間に従属したものとして忠実に考える必然的な理由はない。もっと意識の自由奔放な性質を積極的かつ全面に打ちだしてもいいだろう。次にこれまでの考えを応用してみたい。もし未来に期待も希望をも託さないのなら、それは現実の私(私たち)の現在に具体的な影響を与えるに違いない。例えば、萎縮した期待は絶望同様であって直接未来から現在の私(私たち)に爆弾を落とす。健全なる期待とは未来に栄養を付与するようなものである。これからの人のために樹木を植えるようなものである。そこで育った豊満な「未来」が現在を豊穣に溢れたものにする。単なる楽観論に聞こえるかも知れないが、意識の未来への運動が、同時に未来から現実への運動となることを信じるならば、すなわち未来が現実を動かしているならば、未来にフォルテッシモを与えることは、現在がフォルテッシモになるということになるだろう。
株式市場などは期待と失望などの心理によって騰落するが、これが現実の評価になる。つまり、期待が大きければ騰貴して実際の価値に反映されるし、失望のほうが大きければ実際の価値も下落するような具合に、将来への曖昧で不確かな心理が実体経済を動かしている。未来に良き希望をもつという心構えは、現在の現実をよくすることに繋がるだろう。ただここで言う良いとは、どうゆうことなのかは厳密には知られることはない。
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