コギト
「われわれの身体とは、みずから動くものであり、したがって世界の視線と不可分のもの、それどころか実現されたこの視像そのものであるが、このようなものであるかぎりでの身体こそ、単に幾何学的綜合だけではなしにあらゆる表現作用の文化的世界を構成するあらゆる人為的獲得物の、可能性の条件なのだ。思惟とは自発的なものだと言われるとき、それは思惟が自分自身と合体するという意味ではなく、逆に、思惟は自分自身をのり超えてゆくという意味であって、言葉(la parole)とはまさしく、思惟が真理にまで自己を永遠化してゆく行動である。実際、言葉は思惟の単なる衣服とはみなし得ず、表現もまた、すでにそれ自体で明晰となっている或る意味作用の、記号の恣意的な体系への翻訳だとはみなし得ないこと、これはあきらかだ。
音や音素はそれ自体としては何ごとも語らず、われわれの意識は言語のなかにみずからそこに入れておいたものしか見いだし得ないと、しばしば言われている。けれども、もしそれがほんとうなら、言語はわれわれに何ごとも教えることができず、それはせいぜいのところ、われわれがすでに保有しているさまざまな意味のあたらしい組み合わせを、われわれのなかにひきおこすことができるだけだ、ということになってしまうだろう。これは言語経験の証言とは相反している。意思伝達が辞書によってあたえられるような或る照合体系を前提としていることはたしかだが、しかし、意思伝達はそんなものを超えて行ってしまうのであって、文こそが各単語にその意味をあたえるのであり、相異なるさまざまな文脈のなかでもちいられてきたからこそ各単語は、絶対的に固定化することなぞ不可能な或る意味をすこしずつ帯びるようになってゆくのである。
重要な言葉、すぐれた書物は、その意味を否応なくわれわれにおしつけてくるものだ。したがってそれらのものが担っている意味には、或る独特なものがある。一方、語る主体の方はといえば、その表現の行為自体によって、これまたまえに自分が考えていたことをのりこえてしまうことが可能となり、自分自身の言葉のなかに、自分がその言葉で意味させたい思っていた以上のものを見いだすことがおこるに相違ない。でなかったら、どうして思惟が、たとえ孤独な思惟であってすらも、わざわざ苦労して表現を探し求めるのか、わからなくなってしまうだろう。」
「知覚の現象学」より「コギト」から。
読むことと語ること(書くこと)についての鋭い考察である。特に現代社会においては、コンピュータでなんでもやろうとするが、ここでの研究はそれらに制限を与えるものになり得るという点で見逃すことのできない問題である。メルロー・ポンティは何度も繰り返しているが、それは思惟することそれ自体からではなく、思惟によって生きられたまたは表現されたものが思惟そのものを規定すると強調する。基礎づけるものは思惟そのものではなく、思惟によって表現されたものが、例えば言葉などによって思惟のほうが明らかなものとして現前すると。我々が「読む」とき、あらかじめ与えられた言語体系を参照しながら意味を見いだすのではない。それでは新しい概念を理解することなどできるはずがない。言語によって思惟するが、その逆ではない。そのとき思惟は透明になって言語のほうに身を移しているだろう。このようにして思惟を乗り越えようとする。メルロー・ポンティは次のように書く。「われわれの経験のなかで、或る特定の本質についての直感が直感の必然に先行する」「思惟を思惟する唯一の仕方は、まず何よりも、或るものを思惟することであり、したがって、自分自身を対象とはしないことが、この思惟にとって本質的なことである」。まず直感されるものがあって後、そこから翻って直感とはどうゆうものであるかがわかる。また自分自身を対象とするなら思惟はまだわからず、自分自身を対象としないときに限り思惟が立ち現れ実行される。投げかけられたものから投げかけたものが遡及的に判明する。語ったり書くことについても同じようなことが言える。語る主体はもはや語る側にあるのではなくて、語る行為のほうにある。考えていたこと以上が語られるとか、語っている間に何を考えていたのかが分かるというのは、言語領野のほうから語る主体に向かって意味内容が明らかにされるというような(常識的に考えられているものとは逆の)方向性があるからだ。言語領野のなかに住み込み、そのときには主体は透明になっているが、表現が確定されることで主体のほうに色がついて戻ってくる。このとき思惟は自分自身を乗り越えたことになるだろう。
思うに記号を使った方が理解しやすい。「思惟→対象」ではなく「思惟←対象」と表現できそうだが、もちろん十分ではない。思惟が対象を構成するのではなく、身体が対象に溶け込むことによって対象に馴染み、そこから反転するような具合に思惟が何であるかが明らかになるということを、仮に図示したものが「思惟←対象」である。(←)の方向について(??)と思われる方に付け加えた。
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