基礎づけられぬもの「門」
ハイデガー「存在と時間」第一編 第一章から
「…この課題を実り多いものにする取り上げ方については、今日わたしたちが処理しうる多種多様の文化や現存在の形式についての豊富な知識が、好都合のように思われます。しかしこれはただ外見にすぎません。これを要するに、この様な夥しい知識は、本来の問題を誤認させる誘惑です。混合主義的にすべてを比較したり、また類型化したりすることは、すでにみずから本質認識を与えないのです。一つの表のなかで多様なものを取扱いうることは、そこに配列されて横たわっているものの本当の理解を保証しないのです。秩序の真の原理は、その独自の事象内容をもっていて、これは秩序づけることによって決して発見されず、秩序づけることのなかにすでに前提されているのです。…」
[考察]
知識の確定は、秩序に当てはめることによって大抵の場合なされるが、その秩序そのものを基礎づけるものはない(保証されない)。というのなら、いったい知識はどこにいってしまったのだろうか。これらの知識群は、秩序づける(類型化したりする)ことによって理解されない。なぜなら、この秩序づけたものそれ自身のなかに、もう呑み込まれてしまっているからだ。そして、この秩序を秩序づけているものが曖昧な状態でありながら、なお知識は秩序のなかに入り、押し込められ整理されてしまう。このような知識の理解は本物なのか、とハイデガーは問う。彼はこれを挑発的に「外見にすぎない」「誘惑」とまで述べる。われわれは、混沌を混沌のまま把握できない。もし理解があるとすれば、秩序の範囲内においてのみである。つまり混沌という言葉も、混沌という概念をアプリオリな概念秩序からでしか考えることはできない。真の混沌は理解不可能なのだが、混沌を混沌と言うことが可能なのは、それは秩序に混沌という概念を当てはめているからであって、本質的な意味での混沌ではない。真の混沌はもはや理解不可能なもので言語で表現することすらできないはずなのである。「混沌はある」というとき、その語を秩序づけるものと同時に、その世界ごと暫定的な理解を施しているのであり、したがって、混沌を理解しているというよりは、混沌という語を取り巻いている世界をまるごと理解していることになるだろうが、その世界はいまだなんら秩序づけられてはいないのだし、なんら保証されていない。ここからわかることは、知識を理解するとき、あたかも同時にその知識が入っているような、あるいは分類されている倉庫ごと理解しているのであって、個別の知識だけを理解しているのではないということになるだろう。謂わば、化学の周期表ごと理解するようなものであり、HやOなどの元素をひとつ一つを知ることにはならない。知るとはいうが、その基礎づけられていない幻想としての総体を知ることになる。これから真に知るとはどうゆうことなのか、という疑問が当然ながら生じることになる。
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