SLAM(スラム)

「私はものを見、また感じているが、見るとはいかなることか、感ずるとはどのようなことかを自分で納得するためには、私は、それらがそこに身を投じている見えるものや感じられるものの中にまで〈見ること〉や〈感じること〉につき従うことをやめ、そして見ることや感じること自身の手前に、それらが位置を占めてはいないが、そこからしてそれらの意味や本質が理解可能になるような或る領域をしつらえなければならないことは確かである。見ることや感じることを理解するとは、それらを一時停止させることである。というのも、平生は素朴な視覚が完全に私を占有しており、そしてそこに視覚への注意が付加されるということは、この視覚という賜物全体から何かを奪い去ることであり、そして何よりも、理解するということは、初め物や世界それ自体の中に捕らえられていた意味(un sens)を、われわれの意のままになる語義(significations)に翻訳することだからである。」

M・メルロー=ポンティ「見えるものと見えないもの」から「反省と問いかけ」



見るとか感じるのは、初め身体で受けとるものである。見るのは眼で感じるのは眼と皮膚などの感覚器官において。このときに働いているのは、感覚器官である身体であって思考ではない(とは言うものの思考を司るのは脳であるけれども)。感覚が働いているだけで、それに意味づけをしたり解釈をしたりするのは次の段階である。視覚が視覚機能として働いているとき、見られている対象は視覚によってであるが、見る対象も視覚機能(眼)に含まれるのであるから、この対象というものは視覚の働き自体のなかに染み込んでいることになる。すなわち対象は視覚のなかに閉じ込められており、意味や解釈の出現はまだ無い。見ているとき、見ているという視覚機能の働きに注意のすべてがあり、視覚そのものが対象に意味を付与することはない(視覚には思惟的なものはないと仮定する)。見られる対象は視覚そのものに同化しているので、そこに意味などあろうはずがない。では、どうしたら意味が生じ理解可能になるのであろうか。それには視覚機能への注意がゼロになる必要がある。さらに、メルロー=ポンティがいうように、意味や本質が理解可能になるような或る領域をしつらえなければならない。もしそうしなかったなら、見られた対象は視覚のなかに幽閉されたままで「見た」が、ほんとうの意味で「見た」ことにはならないだろう。「見た」とは視覚が働いたということだけであるが、ほんとうの意味で「見た」とは、思考されたということでなければならないはずだ。思考は視覚を意識しないときにこそ現れる。非常識な論理に聞こえるかもしれない。我々は、見たものを即理解に繋げようとするが、実際はそうではないのであって、思考が知覚よりも先行してあるのではない。知覚を通じて思考を開始し、ここにようやく世界が開示されるのであり、思考の外側に世界がはじめからあるのではない。これらの論理と似たような事例に、SLAM技術がある。自律型ロボットや自動走行で、自己の位置を把握しながら地図を作成する。GPSを使わず、(ということは最初から地図は与えられずにという意味だが)動きながら地図を作成するという技術は現象学の理論(?)に極めて酷似していると思う。

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