いきなりステーキ!

知覚で捉えられるものは何の意味も有せず、そこにはデータのようなものがあるだけだ。といきなり(ステーキに)言っても(行っても)戸惑う(食傷する)だろうから、以下この説明を試みることにしよう。人間の知覚によって入力されるデータのようなものとは、どこから始まりどこで終わるのかも不明であり、統一されておらずカタチもあるようでなく、無秩序で無機質かつ機械的なものである。捉えられたどころがまったくなく無意味それ自体であるから、混乱しているのが普通であるはずなのに、混乱しているようにはみえない。機械にもし心があるとすれば、このようにみえるであろうというような世界である。知覚で捉えられた時点では、なんの情報処理がなされていないから、丸ごとデータのようなものだけがあるだけになる。これは明白な現実だと思われるのに、現実だとは思えないのはどうしてだろうか。知覚即思考と見做してしまい、あるべき順序を考慮していないからだろう。では、どうして知覚即思考と見做してしまうのか。それは当然の事実について改めて反省してみないからである。あたりまえはあたりまえだと言い張るからだ。しかし、あたりまえに思われていることを再考することによってしか新しい認識に至ることはないであろう。認識に於いては、特急よりも各駅停車のほうが望ましい。あたりまえをあたりまえと処理して次に進もうとしても、それは本質的な進歩にはならない。さて、知覚の段階では、まだ意味がない無機質なデータの束のみが存在するだけだと言ったのだった。知覚が知覚となるためには、統一され統合されなければならないが、知覚した時点ではまだ統一も統合もない。思惟なしには知覚が知覚とはならない。少なくとも知覚することそれ自体では、何も捉えることはできない。なぜならバラバラなものが始まりも終わりもなくあるだけなのだから。いったいどこから手をつけたらいいのかという状況である。何かを把握するとか意味を見いだすとは、これら知覚によって与えらた世界を思惟によって捉えなおす必要がある。そうは言っても、知覚から思惟へという順序に忠実になるならば、不思議な話になる。思惟はどのようにして知覚されたバラバラな世界に意味を与えることができたのだろうか。「知覚=思惟」ではないとすると、どのようにして思惟が知覚された世界を秩序づけることに成功したのだろうか。ひとつの仮定として、知覚と思惟(思考)が分離されていないことが想定できるが、知覚機能と思惟作用は常識的に判断するならば別々のものに思える。そうでないとすると知覚機能が魂をもっているのか、という議論になってしまう。しかし「知覚→思惟」の順序は疑うことができないので、思惟が、最も早い順序である知覚された世界(無意味なデータのような世界に例えられる)にどのように関わりをもてたのか謎である。そもそも冒頭の仮定が間違っているのか?知覚と同時に思惟が働くとしても、思惟は知覚を通じて働くのであって、思惟だけで思惟するのではない。


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