模範的被感覚体
「…間に置かれた身体それ自身は、物でも間質性(interstitial)の物質でも、つなぎの布地でもなく、対自的な被感覚体(sensible pour soi)である。その言わんとする意味は、おのれを見る色とか、おのれに触れる表面といった背理にあるのではなく、触覚や視覚に住みつかれた色と表面の一組という逆説[?]、したがってそれに住みつきそれを感じている人間に、自分に似た外界のすべてを感ずるための手段を与えてくれる模範的被感覚体(sensible exemplaire)ということである。したがって、その人間は、物の布地に取りこまれるやいなや、それをすべて自分に引き寄せ、併合し、そしてその同じ運動によって、まだ道が通じていないはずの物に、おのれの出生の秘密をなすあの重なり合いなき同一性、矛盾することなき差異、内と外との隔たりを伝えるということにもなるのだ。身体は、おのれ自身の個体発生によって、それを形作っている二枚の素描、二枚の唇ーつまりは、身体自身にほかならなぬ感覚されうる塊ーを互いに溶接するというふうにして、われわれを直接物に合一させる。われわれを物そのものに到達させうるのは、身体であり、また身体だけであるが、それは身体が二つの次元をもった存在だからである」
メルロー=ポンティ「見えるものと見えないもの」より「絡み合いー交叉配列」。
身体は両義性をもっているように思える。物を捉えようとするとき、それが捉えるようになるような形式そのものが模範的被感覚体としての身体である。世界のなかに身体があるのでもなく、身体のなかに世界を保持しているわけでもない。また主観とか客観というものもない。見えるものと見るものとの区別が曖昧になる。メルロー=ポンティは言う「身体が物に触れ、それを見るというのは、見えるものを自分の前に対象としてもっているということではない。見えるものは身体のまわりにあり、その構内にさえ入りこみ、身体のうちにあって、その眼差しや手を外や内から織り上げている。身体が物に触れ、それを見るとすれば、それはひとえに、身体が物の仲間であり、それ自身見えるものでありかつ触れられうるものであるために、おのれの存在を物の存在に参加するための手段として使うということ、二つの存在のそれぞれは他にとって祖型なのだし、そして世界が普遍的肉であるが故にこそ身体が物の秩序にも属する、ということがあるからにほかならない」。
見られる物は、それを見る側のやり方で見られるが、〈見る〉と〈見られる〉を構成しているものこそ身体なのだから、ここでは主体や対象はなくなってしまう。物を見るとは簡単なことではなく、物を見るという〈仕方〉で見るのだが、この〈仕方〉そのものが身体であって、おのれを手段とすることなのだ。再度メルロー=ポンティの言葉を借りよう。「身体は世界そのもの、万人の世界を、「自己」から抜け出すまでもなく見るのだ。なぜなら、身体は、その全身が-その手や目がまさしくそうなのだから-基準となる見えるものないし触れられうるものの、身体に類似したすべてのものへの指示、身体が視覚ないし触覚そのものという魔法によってその証言を集めているすべてのものへの指示にほかならないからである」。
つまり身体とは指示しているものである。指示そのものである身体の概念から出発して、そのほかの既成概念を捨ててしまったほうがいいかも知れない。〈見るもの〉と〈見られるもの〉のこのような癒着関係は何を示すのか?私の考えは、まず初めにひとつ(身体)があったのであり内と外とか主観と客観などは、それからあとの話になるのではないだろうかということ。分離されているのが普通になっているけれども、それがなぜなのかをもう一度考えるきっかけを与えてくれる。
プラトンの「饗宴」を想起させる。
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