意味の瞬間的な誕生についての草稿

意味方向の矢という概念を想定してみる。もうひとつ、主体の矢も導入する。この二つの矢の相互作用により意味が発火するものと考えてみる。発火するように意味が意味になる。意味方向の矢とは意味を閉じ込めて方向を自由に決定しながら空中を漂っているものと仮定する。このとき、意味は実在するのだが、意味が何者にも発見されていないので、主体にとって無意味である。意味が主体の関与なしに完結してしまっているので、認識されるかたちとしての意味は形成しない。意味が生じる瞬間を次のように考えてみよう。つまり主体として方向をもって流れる矢がこの意味方向の矢と衝突する瞬間にあたかも発火するかのようにその都度立ち現れる。感覚的には意味方向の矢は静止しているだろう。主体の矢みずからが意味に向かって飛んでいくのが自然に思える。意味は初めからあるのではなく、主体の矢がこの浮遊している意味方向の矢と偶然に真正面から衝突したときのみ意味としての地位が与えられる。またこれら二者の矢が同じ方向に向かっているときはどうなるか?日本に住んでいれば日本のことを知らないような事象。つまり差異がないため意味の存在に気付かない。意味が独立かつ閉鎖的に矢として存在しているあいだは、たとえ存在が明確なものであっても意味は生じない。意味があっても意味として認める主体が参加していないから。

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