言語の連鎖から推測する世界
テキストを読むときにどのような心的変容があるのか。言語と言語の連鎖がまずある。言語の理解は言語と言語の関係性の規則が確信に近づくことからはじまる。確信とは相互の関係に規則性を探しだすことに成功したというニュアンスである。けっして単一の言語から即内容の理解には至らない。意識はこの関係性をたどたどしく探すのだが、関係性の方からやってくるのか、こちらの主体的な努力からなのか分からない。言語間の関係性とは言語の連鎖から類推される世界あるいは規則性のようなものである。言語達がこの世界の中でのみ意味をもつような、そのような世界のことである。テキストの読解とはこちらからの意思の志向とテキストに内在しているイデア的なものとの出逢いに似ている。ここで理解の根源にあるのは言語世界の規則性を確信することでありこれを通じてのみ了解可能となる。確信はあやふやであるから自己にとってのみの解釈と言い換えてもいい。言語自体が指し示すものではわからず、言語の連鎖が形づくる規則性が全体的に現出してそれを把握することによって遡及的に単一の言語の意味も決まってくる。あくまでも全体の規則性から知るのであって、単一の言語から知るのではない。これは一見矛盾しているように思えるかもしれない。なぜなら、現実にはひとつひとつの言語を辿っていくのにはじめに全体の把握から知るというのだから。しかしテキストの読解とは言語と言語の関係を執拗に追求する結果として、これまでの理解の外側にあった新しい意味の世界を立ち上げる試みであるというのが、私の印象なのだ。もっとわかりやすく言って欲しい。ならば、こう言おう。はじめから定義の決まっている言葉を追っていって演繹的に理解するのではない。出発とその過程ではしばらくは理解不可能な状況にあるが、この意識的な努力の向こう側に未知の内容が隠蔽された姿で眠っている。
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